1954年の11月に公開された第一作『ゴジラ』は超大ヒットし、国民の十人に一人は『ゴジラ』を観た計算になるという。おかげで傾きかけていた東宝の屋台骨は一気に持ち直し、「続篇を撮ろう」という声が大きくなったのだ。
それで半年に満たないわずかの製作期間を経て、この『ゴジラの逆襲』が製作された。今回は「アンギラス」という、ゴジラと闘うライヴァルが登場するわけだけれども、以降延々と継続するゴジラ映画は、ほとんどは他の怪獣との対決がメインになって行くわけで、わたしはそれゆえに第一作にあったような「映画表現」の幅が狭まっただろうとは思うし、「お子さま向け映画」へとシフトして行く大きな要因だっただろう。
ここで「戦争、核兵器への批判」という視点はすっぽりと消えてしまったが、そういうシリアスなドラマの代わりに、この『ゴジラの逆襲』では一般市民らの幸福を求める暮らしと、ゴジラらの暴挙とが対比されることになる。
今回ゴジラとアンギラスが暴れて破壊するのは大阪の街だけれども、これは大阪から「ゴジラは次は大阪に来てほしい」とのリクエストがあったためらしい。しかし、第一作ではゴジラに壊された銀座の服部時計店などは経営者らが怒り狂ったということで、ずいぶんと変わったものである。まあ今回は企業の建物ではなく「大阪城」が破壊の対象だったから、「ウチじゃないからいいや」となったのだろうか。以後、東宝の怪獣映画は日本中のいろんなところを舞台に選んでつくっているみたいだ。
「アンギラス」については、「まあゴジラが古代から復活してきたんだから、他にも復活する怪獣があってもおかしくないだろう」みたいなもので、あんまり「あいつは何者だ」みたいな追及もなく、名前が付けられたらそれでОK、みたいな感じだ。
「アンギラス」のモデルになったらしい「アンキロサウルス」は恐竜ファンには昔からよく知られた恐竜だけれども、「アンギラス」みたいな全身のトゲトゲなどは持っていないよね。
もちろんこの「アンギラス」も人が入って演じた「着ぐるみ」だろうけれども、人が四つ足動物を演じると不自然になる後ろ足の形状、動きがほとんど気にならなかったということで、着ぐるみのデザインか演出の力なのか演者の技能なのかわからないけれど、うまくやったものだと思う(あとで参照した英語版Wikipediaにこのことが書かれていて、アンギラスの演者はひざを付いて演技をしていて、そのひざから下が写らないように、遮蔽物でカムフラージュしたとのことだった)。
しかしこれ以降のゴジラ映画では、敵の怪獣との闘争がクライマックスになってラストまで引っ張るのだけれども、この『ゴジラの逆襲』では前半で早くもアンギラスはゴジラに倒されてしまうし、後半もゴジラが都会で暴れるというのではなく、北海道沖の無人島の谷間でうろちょろして、ただ人間にやられるのを待つばかり、という展開なのがちょびっと淋しい気はした。
そのゴジラとアンギラスとの格闘シーン、けっこう動きがちょこまかとしていて「動物同士のケンカ」として妙にリアルだと感じたのだけれども、これはほんとうは迫力を出そうとスローモーション撮影しようとしたのが、撮影助手が間違えて「コマ落とし撮影」にしてしまったためらしい。撮影ラッシュを見た担当は怒ったが、円谷英二は「この方が野獣の格闘らしい」と気に入ったのだという。以降、東宝の怪獣映画の格闘シーンは「コマ落とし」で撮られることが通例化したらしい。
ドラマはある漁業会社で、空から魚群を捜索する飛行機パイロット2人を中心とした人間ドラマになるけれども、彼らは最初にゴジラとアンギラスの発見者でもあり、大阪の街が破壊されるのも目のあたりにし、そのあとは北海道の支社で仕事を継続して、またもやゴジラに遭遇。ゴジラせん滅に協力することになる。
こういうのは『ゴジラ-1.0』で最初にゴジラと遭遇し、そのあと銀座の惨状も目撃したあとに「わだつみ作戦」にも参加する、敷島の行動を思わせるものもあるだろう(どちらも飛行機パイロットだし)。
しかしこの映画の主人公2人は、そんなにゴジラに対してトラウマになるような心理があるわけではなく、けっこう小市民的なドラマではあり、ゴジラに蹂躙される大阪の市街を見ながらも、「ぜったいに復興してみせるぞ」と声を上げるし、北海道では料亭での宴会がかなり長々と出てくる。小林(千秋実)は結婚を夢見て「花嫁探し」に熱心になっている男であって、「花婿さん」とのあだ名ではあるし、ラストには見事なまでの「死亡フラグ」を残して「ゴジラ捜索」に向かうわけだった。
そういう「人間ドラマ」ではあったが、ただ、短かったけれども、護送中に脱走した囚人3人の逃走シーンはちょっと異質で面白かった。特に地下鉄構内へ逃れた3人を、ゴジラらのせいであふれた濁流が襲うシーン、この作品でいちばん素晴らしかったかもしれない。
こういう、前作『ゴジラ』での社会派的「反戦・反核」メッセージのない作品、当時はどう受けとめられたかというと、逆に高く評価されたらしい。あまり主張の強い作品は受け入れられなかった時代だった。
ラストの「ゴジラ氷責め攻撃」はじっさいに大量の氷を使って撮影されたらしいけれども、その氷の塊の大きさ、透明な見てくれから、「ゴジラの小ささ」を感じさせられたのは残念だった。
また、こうやって明確にゴジラを殺すのではないラストというのは、原作の香山滋氏が「もうゴジラを殺したくない」との考えからのものだったそうだ(香山氏は前作『ゴジラ』のラストを観て、ゴジラを憐れんで一人座ったまま泣きつづけていたのだという)。
それで次作『キングコング対ゴジラ』では、「ゴジラの復活」が容易になったわけだ。