ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『シン・ゴジラ』(2016) 庵野秀明:脚本・総監督 樋口真嗣:監督・特技監督

 これまでのすべてのゴジラ映画をリセットし、1954年版「ゴジラ」のように「未知の巨大生物現らわる〜<ゴジラ>と命名しよう〜首都東京をゴジラからいかに守るか」という展開、なのだろう。
 とにかくはわたしとしても期待大の作品で、「リアルな怪獣映画を観るぞ〜」という期待に燃えていた。冒頭の東京湾の水蒸気噴出のシーンなど、期待は高まる。そしてついに、ゴジラが東京に上陸する。‥‥あれ? あんな小さな河川を遡上するなんて、大きさが合わないのではないのか? という感じだけれども、船舶をはね上げながら背びれを見せながら遡上してくる姿には期待する。しかし‥‥。

 ついにその姿を見せたゴジラ。あれ? あれれれれ? わたしはマジに、観る映画を間違えたのではないかと思いそうになった。それほどに大きくはない図体にまぶたのない丸い目。奇妙に可愛くないか? これでは前に観た園子温の「ラブ&ピース」に出現した巨大化したミドリガメ、「ピカドン」ではないか。わたしはココで完全にずっこけてしまい、それ以後の展開も冷めた目で観てしまうことになった。
 いちおう、それ以降もゴジラは自己進化をつづけて巨大化していくのだけれども、観ていてもずっと「もっと強烈な造形はできなかったものか」と、そればかりを考えていた。だいたいわたしは前情報からも、「ゴジラのしっぽはあまりに大きすぎてバランスが悪くないか」とか、「あの太ももはいくら何でも太すぎるだろう。おまえは競輪選手か?」「腕が小さすぎるだろうが!」などとは思っていたのだけれども、もうそういう意味では、それ以降ゴジラの造形に期待することはあきらめざるを得なかった。残念なことである(終盤でも、背びれを光らせるのはいいとしても、その背びれからサーチライトみたいに放射線を放射するのは、やはりヤリすぎだと思うのである)。
 また、ゴジラ上陸前の段階で「ゴジラは自重を支えきれずに生き延びられずに自滅する」との説が披露されるが(もちろんそんなことは起きないが)、それ以前に、東京地区の「沖積層」の軟弱な地盤にゴジラが上陸する(立ち上がる)ならば、泥沼に沈むようにズブズブと自重で体が沈下し、一歩も前に進めないまま「底なし沼」に消え去り、そこで「一巻の終わり」になってしまうことだろう(これは昔っから、「ゴジラ映画」を観るたびに思っていたことだけれども)。

 さて、それからの期待はドラマ部分というか、いかに日本政府がゴジラを抑え込もうとするのか、というあたりの興味。大杉漣演じる総理大臣、柄本明演じる官房長官をはじめとした政府高官らが、専門家を招集して対策を練る。余貴美子防衛大臣だというあたり、「これは当時の稲田朋美か?」と、現実とのシンクロを楽しみたかったのだけれども、あまり見せ場もないままに消えてしまった。そのあたりは大杉漣の「オレ、わかんねえよ」という空気を漂わせての応対、クスッと笑わせられた。
 わたしとしてはもうちょっと、庶民クラスの人間ドラマをみたかったところもあるけれども、あくまで国、政府として「ゴジラをどう抑え込むか」「東京をどう守るのか」という展開。これは政府が「非常事態」にどう対処するかというドラマであり、「東日本大震災原発事故」をモデルとした作劇なのだろう。
 狂言回しのような存在で長谷川博己が展開をひっぱるけれども、わたしは「環境省自然環境局」の人物として登場する市川実日子の存在が最高だった。もともと市川実日子は好きな女優さんだし、ここで事務的に感情を排して早口でまくしたてる彼女、わたしの中ではこの映画の最高のヒロインではあった。

 しかし、観ていくとこの作品、どうみても実写版「エヴァンゲリオン」という空気になっていく。もちろんゴジラが「使徒」で、実はまだエヴァが完成していないのでファースト・チルドレンなどの登場はなく、とにかくは自衛隊だけでいかに使徒に立ち向かうか、という作品かと。「なんとか作戦」というのも出て来て、「そりゃあ<ヤシマ作戦>のことだな」とか思わせられてしまう。そう観ていくと長谷川博己は実は碇シンジなのかもしれないし、アメリカから来るバイリンガル石原さとみはやっぱり惣流・アスカ・ラングレーなんだろう。市川実日子は赤城リツ子っぽいところもあるけれども、やはり彼女は伊吹マヤなのだろうか。
 やっぱり結局この作品、つまりは誰かが脳内で描いた妄想だった、そういう作品だったのではないだろうか(しかし、たいていの過去に観た映画のことなど忘れてしまっているわたしが、意外にもことのほか「新世紀エヴァンゲリオン」のことを記憶していたというのは、ちょっとしたおどろきではあった)。