ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『ゴジラ-1.0』(2023)山崎貴:脚本・VFX・監督

   

 12月になって、この新作ゴジラ映画がアメリカでもかなり大規模に(字幕付きで)一般公開され、観客動員数も相当なものだったというし、何よりもアメリカの有名な映画評サイト「Rotten Tomatoes」で批評家レビューは97パーセント、一般レビュー(千件以上のレビューが付いた)では98パーセントという、ちょっと信じられない高評価を得たというのだ。
 わたしもその「Rotten Tomatoes」を見てみたのだけれども、まさに絶賛の嵐。一般レビューでは「今年最高の映画」というのはもちろん、「今まで観た映画の中でも一番!」という評も複数あった。
 「そんなにすごいのか、ではやっぱり映画館へ観に行こう!」と、そんな絶賛評に後押しされたのだが、思うに、アメリカの観客も近年のハリウッドによる「モンスター・ヴァース」での、「アクション怪獣映画」路線をそこまで賛美してもいなかったのだろう。わたしも先日サブスクで最近の作品、『ゴジラvsコング』を観たのだったが、ゴジラもコングもただ互いに都市の建物を破壊してプロレスのように争うばかりで、「地球空洞説」のようなトンデモな世界は出てくるし、『ゴジラ』や『キングコング』それぞれの第一作にあった、「巨大な怪獣が人々の住む街を襲う恐怖」というものは、かけらもなくなってしまっていたわけだ。

 そんなとき、最初の1954年の『ゴジラ』を引き継ぐような、この『ゴジラ-1.0』が公開された。ここにはただ「災厄」の象徴のような凶暴な怪獣が人々の前に現れ、破壊の限りをつくす。

 時代はまだ太平洋戦争の末期から始まり、特攻機の発進基地にゴジラが上陸し、基地の人々を踏みつぶし、噛みついて放り投げる。それはただ人に「恐怖」の感情を抱かせるばかりで、そのとき一機残ったゼロ戦のコックピットからゴジラに機銃の狙いを定めた、主人公の敷島(神木隆之介)は恐怖心から引き金を引けない。恐怖の一夜が過ぎてゴジラは海に去り、基地には敷島と整備兵の橘2人のみが生き残る。橘は銃撃しなかった敷島を責めるが、そもそも敷島は特攻に出撃したが「死」を前におじけづき、「機体の不調」を理由に基地に帰還しており、そのことも整備の橘は知っている。この体験は敷島のトラウマ、PTSDとなるのだが。
 戦争は終わり、敷島は廃墟となった東京に帰還して、機雷撤去作業という仕事に従事する。
 翌1946年、アメリカはビキニ環礁で核実験を連続して行い、近海にいたゴジラは被曝、巨大化した上に特殊能力を持つ生物になってしまう。

 1947年、海上で人々の前に姿をあらわしたゴジラは日本に向かっているようで、いちどは敷島らの船もゴジラの足止めのため、元日本海軍の巡洋艦らと共に日本近海でゴジラを攻撃するが問題にならない。
 ここで国内で「ゴジラが東京方面に向かっている」との予測を立てるのだが、そのときの様子が台風の進路を予測するような感じで、まさに「ゴジラ」=「台風」という、自然の脅威として了解されているようだ。

 終戦から1年半経ち、復興再建の進む東京の街にゴジラは上陸し、銀座を襲う。すでに運行されている山手線の車両を破壊し、ビルを破壊する。
 第一作の『ゴジラ』でも、ゴジラが電車を口にくわえて破壊する場面があったけれども、ここでもゴジラは電車車両を口にくわえるシーンがあり、第一作へのオマージュであろう。また、ビルの屋上からラジオで中継するアナウンサーらの存在もまた、第一作からだろう(ここでは「さようなら皆さん!」とは絶叫しないが)。
 銀座の市街地を逃げまどう人々の向こうに、ゴジラが蹴散らかす車両やビルの残骸がまさに「蹴飛ばされる」さまは臨場感があるし、そんな逃げる人々をゴジラの足が踏み潰して行くのは恐ろしい限りだ。俯瞰ショットだけでなく、まさにゴジラの足元からゴジラを見上げるショットがあり、間近からゴジラを見上げる恐怖がダイレクトに伝わってくるし、畏怖の念をもおぼえてしまう。
 映像としてはまさに、このような場面こそが「怪獣に襲われるという恐怖」を描き出すもので、ハリウッド産の「ゴジラ映画」が撮らなかった視点だっただろうと思う。
 また、ゴジラが口から吐く「放射能熱線」は今までのどんなゴジラ映画よりも強力で、「それじゃあ<核兵器>ではないか」というパワーである。

 ゴジラが海に去ったあと、東京での被害は死傷者3万人などとアナウンスされていて、まさに「災害」としてどれだけの被害があったのかが数値化される。
 ここで「対ゴジラ」の戦略が練られ、海深の深い場所までゴジラをおびき出し、フロンガスなどを使ってのゴジラせん滅計画が立てられるが、これも第一作「ゴジラ」での必殺兵器「オキシジェン・デストロイヤー」使用に匹敵する展開で、やはり第一作を踏襲する意識が強いだろう(実は、これだけではないのだが)。ただ、ここで皆がたてる「わだつみ作戦」の組織と陣営、やはり太平洋戦争での日本軍組織を引きずっているように思え、ちょっと鼻白む。

 さいごのゴジラと人々との決戦は海上で行われ、ここでようやくついに、伊福部昭の「ゴジラのテーマ曲」が流れてくる。まさに「血沸き肉躍る」使い方で、ついつい目頭が熱くなってしまうのを止められない。ところで、この場面での敷島の役割は、ゴジラ第二作『ゴジラの逆襲』へのオマージュっぽくもある。

 この最後の決戦の場が「海」だったことで、つまり海に沈んだゴジラは「もしかしたら復活するぞ」というわけで、次回作への期待も持たせてくれるわけだろう。
 あと、この海のシーンで、クリストファー・ノーランの『ダンケルク』へのパスティーシュがあって、ここで「軍隊組織ではなくって、民間人らの手でゴジラを倒すのだ!」というメッセージが表に出ることになるのだな。

 ま、この話にプラスして敷島の周辺の人間ドラマもあるのだけれども、そこまで何もかも書いてしまってもよろしくないでしょう(ここまで書いた中でも要点を抜かしているところもあるし)。
 その人間ドラマに敷島の葛藤や悲しみ、トラウマから抜け出しての希望などが描かれていて、まさに「明日へと希望を持たせられる」映画にもなっている。

 わたし自身は、やはり1954年の第一作『ゴジラ』こそ「すべての始まり」ではあったし、完成度も高く「別格」だったとは思うが、わたしもそれなりに今まで「ゴジラ映画」を
観てきた中で、この『ゴジラ-1.0』こそ、「別格」に次ぐ素晴らしい作品だった、とは思う。