ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『賜物』 ウラジーミル・ナボコフ:著 沼野充義:訳

 ナボコフは1940年にアメリカへ渡るのだけれども、その前のドイツ~フランス亡命時代の、そのさいごにロシア語で書かれた作品がこの『賜物』(これが亡命時代さいごの作品というわけではなく、さいしょに英語で書かれた『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』が1939年にフランスで書かれている)。
 おそらく、ナボコフの中にもこれが「ロシア語で書くさいごの作品」という意識があったのではないだろうか。全体がナボコフの中での「ロシア文学」の総括、というような内容でもあるだろうし、作品ラストの「さらば、本よ!」という言葉も「さらば、ロシア文学よ!」と書いているようにも感じられる。

 この小説、主人公のフョードルが「作家へと成長していく」という、いわば「ビルドゥングスロマン」のような作品かと思うと、そうではない。
 フョードルは作品のさいしょっからすでに「才能ある作家」なのであって、ただ自作の出版を経てそのキャリアをスタートさせようとしているにすぎない(「すぎない」というのはちがうかもしれないが)。だからつまり、この作品のなかでとりわけて、主人公は成長していくわけではないのだ。
 このことは彼の恋愛についても同じで、フョードルにはジーナ・メルツという恋人がいるのだけれども、普通作家が筆を尽くして書くところの「出会い」「恋の成長」「恋の成就」についてほとんど書くこともなく、ただフョードルは彼女との関係が堅固なものになるまで、この本の中でジーナを登場させないのである(なかなか登場しないのだ)。

 このけっこう長い小説の、そのストーリーはというと、「これから本を出したいと思っているロシアから亡命してきた主人公フョードルが(彼は一冊の詩集は出版しているが)、ベルリンのロシア亡命文学者らと交流しながらさいしょの本『チェルヌイシェフスキーの生涯』を出版し、さらにラストには次の作品の構想がまとまる」ということになるだろうか。
 しかし、実はこの『賜物』という作品全体が、そのフョードルが『チェルヌイシェフスキーの生涯』の次に書いた作品そのもの、というメタ構成になっているわけだ。
 だからこの作品、「フョードルという主人公が『賜物』という作品を書くまでの経過を書いたもの」ではなく、あくまでも「フョードルの書いた『賜物』という作品」として読まれなければならないだろう。この二つのことは、しっかりと「別モノ」なのだ。つまり、「ナボコフが<フョードル>という架空の存在を主人公とした小説を書いた」、というよりも、「ナボコフが<フョードル>という人物を生み出し、その<フョードル>にこの作品を書かせた」ということであろうか。
 「そんなことをやっている作家も多いのではないか」と思うかもしれないが、読んでいるとそこにナボコフのしかけた仕掛けがあちこちにあることに気づき、単純に「小説を読む」面白さを越えた、まさに「ナボコフの小説を読む面白さ」が味わえる。ナボコフのファンであることの喜びである。

 わたしがこの作品を読んでいちばん興奮したのは、特に第2章での、「一人称」と「三人称」とのあいだの自在な行き来というもので、つまり「彼」を主語に書かれていた文章が、いつの間にか「ぼく」が主語に代わっていて、そこで「客観的視点」は「主観」へと置き換わるのだ。
 この転換は、作品の中でフョードルが蝶類の学者であった父のアジアの探検を想像し、そのなかでフョードル自身が父と共に行動するようになると想像する部分の記述において特徴的だったけれども、その他のところでもこのような転換は起きていたし、一人称の文の中に唐突に「あなた」という呼びかけが書き込まれている個所では、読みながらもドキッとした(この「あなた」という呼びかけは作品中でも一ヶ所だけで、けっきょくその「あなた」が誰を指すのかはわからないままだった)。
 どういうところでこの「人称」の交換は行われるのだろうと、ちょっと気にして読んだところもあったが、例えばフョードルが町を歩きながら一人称の「ぼく」でまわりの景色や自分の考えを書いていて、そのフョードルがバスに乗り込んで座席にすわると、そこからは「三人称」に代わってしまうのだった。「なるほどな」とは思ったが。

 まだまだわたしは読者としては「へぼ」なので、この本の面白さを読み落としているところもいっぱいあるにちがいない。また読める機会があるといい。そうすればまた新しい発見があることだろう。