ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『ストーカー』(1979) ストルガツキー兄弟:原作・脚本 アンドレイ・タルコフスキー:監督

 生涯に9本の作品しか残さなかったタルコフスキーの、ソ連時代最後の作品。原作はソ連のSF作家兄弟のストルガツキー兄弟によるもの。

 「隕石の落下か? 宇宙からの生命体か? ある地域で奇妙なことが起きた。それが『ゾーン』だ。軍を送ったが戻って来ない。そこで非常線を張り、立ち入り禁止区域とした。」
 その「ゾーン」の中にはおおやけにされていない謎の「部屋」があるといい、「部屋」を目指して「ゾーン」に立ち入る者がつづくようになる。実はその「部屋」とは、人々の切実な望みをかなえる力があるという。その「部屋」への案内人が「ストーカー」と呼ばれる人たちであった。
 そんなストーカーの一人が、「教授」と「作家」とを案内して「ゾーン」へと向かう。
 ストーカーの妻はストーカーの出発を止めようとするが、ストーカーはその制止を振り切って出立する。ストーカーには娘があるが、生まれつき歩くことができないようで(原作ではもっと「奇形的」な子らしい)、妻は夫のせいで「呪われた子」だと言う。
 物理学の「教授」は学者としての興味から、「作家」はひらめきを失ったので取り戻すために「ゾーン」へ行きたいのだと言う。
 三人は警備の網をくぐりながら「ゾーン」へと入って行くが、その進む道筋は、ストーカーによってその都度厳密に決められる。道筋はいつも同じではないし、最短距離を行けばいいのでもない。また、行きと帰りも同じではないのだ。「作家」はだんだんに、そんなストーカーに疑いを持つようにもなる。
 三人は大きな工場の廃墟のようなところに入り込み、その中にその「部屋」もあるらしい。
 唐突に、あるところに電話機が置かれていて、「教授」がその電話機で外と連絡を取る。「ついにわたしは目標のすぐ近くまで来た。すぐにわたしは目標を爆破する」という。「教授」は「ゾーン」や「部屋」の秘密を知っていたのか? 電話の向こうでは「君はもう重罪だぞ」と語られている。
 「部屋」の入り口に到達する三人。ストーカーはただ、どんな人であろうとも「部屋」を訪れたいと願う人を案内するだけ。ただ、願うときに自分の過去を思い出して「善良」になってくれることを期待しているという。ストーカーは自ら「部屋」には入らないが、それは「自己利益」を目的にしてはいけないと自己を律するからだと。「作家」は「部屋」に入ることに尻込みするが、そこで「教授」は、自分たちが作ったという20キロトンの爆破力のある小型爆弾を取り出す。「ここは誰も幸せにしない 悪用されるばかりだ 私はそれを防ぐのだ」と。「教授」の仲間は「『希望』は残しておくべきだ」と爆弾を隠したらしいが、「教授」はそれを見つけてここへ持ち込んだのだ。
 ストーカーは「世界から『希望』を消滅させてはいけない」と、「教授」から爆弾を取り上げようとするが、「作家」がそれを妨害する。ストーカーは「わたしには『ゾーン』しかないのだ、取り上げないでくれ」と語る。「作家」は、「『部屋』でかなえられる『切実な望み』とは、表面上の「望み」ではなく、当人が自覚していないその人の『本性』だろう。わたしはそんな自分の『本性』を知りたくはない」と、「部屋」に入ることを拒む。そしてついには「教授」も、「わたしにもここに来た意味がわからなくなった」と、爆弾を分解して水の中に捨てるのだった。
 「部屋」の前でただ座り込む三人。ストーカーは、「何もかも捨てて、妻と娘とここで暮らすことにしようか」と語るのだった。
 帰宅したストーカーは横たわり、妻に「あいつらは信仰のための器官が退化しているに違いない」と語る。「彼らは誰も信じようとしない」そして「恐ろしいことに、誰もあの『部屋』を必要としていない」と嘆くのだった。「もう誰も案内する気はない」というストーカーに、妻は「わたしがいっしょに行こうか? わたしにも願い事はあるのよ」と言うが、ストーカーは「ダメだ、絶対ダメだ。もしもお前に何かかあったら‥‥」と語るのだった。
 ラストに、妻の(観客への)「苦しみがなければ幸せもありませんし、『希望』もないでしょう」との独白。そしてあの、娘の「奇跡」のシーン、列車の通過音とベートーヴェンの「第9」とで映画は終わる。

 ‥‥う~ん、あとで自分でこの寓話的な映画のことを考えるための手助けにと、必要以上に映画の展開を書いてしまった気がするけれども(ネタバレしすぎ?)、もちろんこれだけではなく、タルコフスキーらしい映像というものがあるし、次作の『ノスタルジア』に引き継がれるような「犬」のこともある。
 ワンシーンワンカット長回しが多く、全160分ほどの作品でのカット数は140ほどだとも言う。実はこの作品、ひととおり撮影が終わったところで(なんと!)全フィルムの現像に失敗し、ぜ~んぶ撮り直しをしたらしい(そのときに撮影監督もアレクサンドル・クニャジンスキーになったらしい)。

 主人公のストーカーの暮らす室内がさいごに映されるけれども、それはけっこうな蔵書量で、彼は実は「宗教者」として並ならぬ存在だったのでは、とも思わせられる。そこに彼の「ストーカー」としての使命感があるだろうか。
 タルコフスキーはじっさいに信仰心の篤い人だったらしく、けっこうこの「ストーカー」へのシンパシーは強かったのだろう(このあたりは、わたしにはどうのこうのという言葉の持ち合わせはないので、この映画に関しても「判断保留」とするところは多い)。
 断片的なことを書くけれども、「教授」の持ち込んだ「小型爆弾」はまさに、オッペンハイマーのつくりだした「原子爆弾」のようなモノだったとも思える。そして「部屋」とは、「世界を救う」ものなのか、「世界を破滅に導く」ものなのか。その「部屋」にあるのは、「希望」という概念をめぐる、宗教的な寓意なのだろうか。わたしには「こうだ!」と言い切れないものではある。
 わたしはラスト近く、ストーカーの家族が家に帰るときに川の対岸に見えるのは「原子力発電所」だと思ってしまい、やはりこの作品には「原子力」への暗喩があるのだろうかと思ってしまったが、実はあれは「火力発電所」だったらしい。
 ただ、タルコフスキー本人と彼の妻のラリサ、そしてこの作品で「作家」を演じたアナトリー・ソロニーツィンとは、三人とも同じ種類の癌で亡くなられていることから、この『ストーカー』撮影場所の上流にあった化学工場からの汚水のせいで亡くなられたのではないか、と確信される人もいる。