ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『めまい』(1958) アルフレッド・ヒッチコック:監督

 というわけで、「英国映画協会」などが今年選定した、「史上最高の映画TOP100」で堂々の第2位に選ばれた、ヒッチコック監督の『めまい』を観た。まあもちろん昔観ているけれども、主人公のジェームズ・スチュアートが「高所恐怖症」だったということとか、いちどはそのジェームズ・スチュアートの前で自殺したとみせたキム・ノヴァクは「替え玉」で、背後に犯罪計画があったのだよな、ぐらいしか記憶してはいない。けっこう複雑なストーリーのようだが。

 元刑事だったジョン・(スコティ)ファーガソンジェームズ・スチュアート)は、犯人追跡の途中で屋根から崩落しそうになり、いっしょにいた警官が自分を救出しようとして落下するのをみて「高所恐怖症」になり、刑事職を辞職してしまう。そこに昔の友人のエルスターという男が連絡して来て、「自分の妻のマデリン(いちおう、キム・ノヴァク)の行動が不審なので、調査してほしい」との連絡がある。
 どうやら話を聞くと、このマデリンという女性、百年も前に不遇の死を遂げたカルロッタという女性に憑依されているというか、リインカーネーションとかチェンジリングみたいなことになっているように見えるらしいのだ。エルスターは「今夜、レストランでわたしは妻と食事をするので、彼女の顔を覚えて、以後動向を探ってほしい」というわけだ。

 先にぜ~んぶネタバレしてしまうと(ココから先、まだこの映画を観ていない人は読まない方がいいと思う)、コレはすべてエルスターの妻殺しの犯罪計画の一環で、実はスコティの前に姿を見せるところのキム・ノヴァクのマデリンはじっさいの妻ではない「ニセモノ」というか、スコティを釣るための「エサ」で、スコティはみごとにこの「エサ」に食らいついてしまうのだ。スコティはマデリンを調査しながらも完全に彼女に惚れてしまう(職務逸脱である)。
 この偽マデリン、エルスターの指示・教育で動いているわけだが、彼女の「前世」とも言えるカルロッタの行動のあとを追って動き、そのマデリンをスコティがストーカー的に追って行くわけだ。
 ついにマデリンを愛してしまったスコティは、マデリンに「ダメだ、わたしはあなたを愛してしまった」と告白するが、マデリンは「わたしもよ」と、二人は固く抱き合い、接吻を交わすのである。マデリンはスコティに、「わたしがいなくなったあと、あなたはわたしの愛を知るでしょう」とも言う(このセリフはエルスターの脚本なのか?)。
 しかしマデリンは「自分の心の中の過去の清算」のため、町はずれの教会の塔に登ろうとする。そういう高いところはスコティには行けないわけだが、彼女を追って行こうとしたとき(当然、ある程度以上は「高所恐怖症のために上がれないのだ)、マデリンは塔の上から「投身自殺」をしてしまうのだった。映画の時系列、真相解明とは違うが、コレは先にエルスターが「本物」の自分の妻を殺害しておいて、その塔の上でマデリンが来るのを待っているわけで、そのとき塔の上から落下したのは、すでに夫に殺されていたじっさいのエルスター夫人だったのだ。
 このエルスターという男、新聞記事でスコティがそういう事情で「高所恐怖症」になり、刑事職を辞めたことを知ってこの計画を立てたわけではある。

 この表面的には「マデリン自殺」という事件のあと、「高所恐怖症」に加えて重症の「うつ病」に陥ってしまうスコティだけれども、月日を経て退院したあと、街角でマデリンにそっくりの女性に出会ってしまうのだ。「これは運命的出会い」とでも思ったか、その女性ジュディ(もちろん、キム・ノヴァクである)の住むアパートを訪れ、「これからもわたしと会ってくれ」とダイレクトにナンパするのである。実はそのジュディはもちろん、エルスターにかどわかされて「マデリン」を演じていた「当の本人」なのではあるが。
 ジュディもそこでスコティを「気味が悪いわね!」とか言って追い出せば、もうこの映画は成り立たなくなってしまうのだが、実はマデリンに扮してスコティと会っていたとき、ジュディもまたスコティに心を奪われていたのではあった。
 しかし、スコティはやっぱちょっと「異常」で、ジュディという女性の「内面」にまったくおかまいなく、ジュディにどこまでも「死んだマデリン」と同じ服装、同じ髪型をさせようとこだわるのだ。ジュディもさすがに自分も「犯罪」に加担していた意識もあるし、そうでなくっても、愛する男がその男が昔愛した(今は死せる)女性と同じ外見にしようとすることに大きな抵抗はあるのだが、ま、彼女も彼を愛しちゃってるからね、受け入れてしまうのだ。

 そんな「偏執狂」的なスコティは、ジュディの身につけた首飾りからこのたくらみの真相を知ることになるのだが、さいごに自分の「高所恐怖症」を克服するために、かつて事件のクライマックスにマデリンが「自分の過去の清算」に登ろうとした塔にジュディを連れて行き、今度は「自分の精算のために」いっしょに塔を登るのだった。あとのことは書きません。

 さて、ストーリー展開的にも「げげげげげっ!」って感じでびっくらこいてしまうのだけれども、やはりそのストーリーを引っ張る「映像」の力はあまりに大きい。レストランの中でマデリンの緑のドレスへ向かって行くカメラだとか、「岸辺に打ち寄せる波涛」をバックとした、まるで東映映画のオープニングのような映像をバックに交わされる、スコティとマデリンのさいしょの口づけ。終盤に「もうこれであなたはマデリンなのだ」とばかりに、スコティが完璧にマデリン扮装させたジュディを抱いて口づけするシーンで、二人のまわりをぐるぐる回るカメラ。しかもその半分はスコティが過去にマデリンと訪れた「馬車のある博物館」になったりする。

 長くなってしまったが、さいごにどうしても、もう一人の登場人物の「ミッジ」(バーバラ・ベル・ゲデス)という女性のことを書いておきたい。
 実はこの映画の冒頭で、そのミッジの部屋に来ているスコティがミッジと会話を交わし、スコティはミッジに「僕らは昔婚約してたね」と言い、「でも君が婚約を破棄した」とも言う。この映画の時制現在でも、スコティとミッジは「気の置けない」友人同士のようではあるが、この時点ではミッジはスコティのことが好きなように思える。「わたしが愛しているのは一人だけよ」などとも語るのだけれども、もちろんこの映画の中ではスコティの気もちはすっかりマデリンの方に行ってしまうわけだ。
 そのことを知ったミッジは、スコティが美術館で見たマデリンが心酔するカルロッタの肖像画から、その顔を自分に挿げ替えた肖像画を描いてスコティに見せるのだ。
 ‥‥この行為は、バカげている。ある意味、およそ人の行う行為でコレ以上バカげた行為もないとも言えると思う。ミッジがスコティのことを今はいちばん愛してしまっていることは仕方がないとして、今スコティが愛している(と思われる)女性の肖像画の顔を、自分に置き換えて描いてしまうというのはそれこそ「フーリッシュ」だろう。それまでいくらその女性と屈託ない関係を持っていたとしても、こんなことをやられたらわたしなら「絶交」し、以後二度と彼女とは会わないだろう。じっさい、映画でもスコティはその絵を見て「面白くないね」と言い捨てて部屋を出て行くのだが。
 そのあとは「マデリン」が死んだあと、重い「うつ病」で入院治療しているスコティのところにミッジが見舞いに来て(もちろん以後、スコティが以前のように気安くッミッジの部屋に行くことなどなかっただろうが)、モーツァルトのレコードを聴かせ、なんと「お母さんが見守っているからね」などと彼に語りかける。そのあとに「わたしはあなたを愛してる」などとも言うのだが、ま、わたしの感覚としては「なんと不愉快な女性だろう」という気もちを抱くことになる。
 何かで読んだが、ヒッチコックはこの映画でこの「ミッジ」という女性がどのように評されるか、とても気にしていたという。それはどういうことだったのだろうか。知りたい。
 っつうか、このままでは「高所恐怖症」は克服出来たとしても、間違いなく「人格崩壊」に陥るであろうスコティを、はたしてミッジが救うことが出来るだろうか、ということでもある。わたしは「彼女にはムリだ」と思うが。