ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『商業美術家の逆襲 もうひとつの日本美術史』山下裕二:著

 実はつい昨日まで、竹橋の東京国立近代美術館で『没後50年 鏑木清方展』が開催されていたのだけれども、その鏑木清方も、この本でかなり大きく取り上げられている。
 じっさい、この本は去年2021年の春に東京地区で開催された「小村雪岱スタイル―江戸の粋から東京モダンへ」、「渡辺省亭―欧米を魅了した花鳥画」、そして「コレクター福富太郎の眼―昭和のキャバレー王が愛した絵画」の三つの展覧会を監修・企画協力した方による著作で、その「鏑木清方展」もまた、連動していたのかもしれない。

 ひとつこの本が試みているのは、つまりは日本の近代美術史の再検討ということで、それは大きく捉えれば「書き換え」ということをも目指しているようではある。特にこの本が取り上げているのは、その前半で「日本画」と呼ばれるジャンルが主で、読んでいてもたしかに、この本で紹介されている画家たちは知らなかったりして、たしかにわたしなどがよく知らない日本画家で、「こんな画家がいたのか」と思わせられることになる。
 しかし、だいたいが明治以降に成立した「日本画」というようなジャンルは、政府主催の官展から生まれた「日展」だとか、日本美術院による「院展」などを主流としたアカデミックな視点から見られたところが大きく、そもそもが展覧会に出品される作品をメインとみての評価、批評が大勢を占めてきたのではないかと思う。
 そんな中でメインから外れてあまり展覧会に出品しなかったり、個展も開かないような作家に注目は当たらなかったわけで、この本に取り上げられたように小説の挿画、そして書籍の装填などで活動されていた人たちは、そういうメインのところからは「アーティスト」と認められなかったところがあるだろう。

 まあわたしは「日本画」の世界のことはよく知らないのだけれども、そもそもの日本画の世界の批評、評論というのはそれこそアカデミックなもの中心で、取りこぼしが多いだろうというか、メインから外れたところで活動した作家らは、この本にあるように「商業的」なものとして軽んじられ、名も忘れられかけていた人も多いわけだろう。
 そのような作家らにここでスポットをあてたことは、「日本画の歴史の再検討」ということで意味があるとは思ったし、じっさい、わたしなどはこの本で初めて知ったといっていい、小村雪岱などという画家は「すばらしい」ものだと思ったりした。

 ただ、それではこの本に取り上げられた日本画家がみんな注目に値するものかというと、時代が下って明治後期、大正以降の作家には、わたし的にはあんまり感心しないようなのも、けっこうあったようには思う。

 後半には、もっと洋画に近い視線から「木版画」(「新版画」と呼ばれたらしい)を製作した川瀬巴水や吉田博などの作家も紹介され、わたしはこのあたりの作家は以前から好きだった。
 終盤にはデザイン・イラストの世界に目を向け、そこから漫画にも視線を向けることになるわけで、「つげ義春の『ねじ式』の原画などは将来は<日本国宝>になるだろう」などという意見も面白い。

 しかし通読し終えて、けっきょくこの本の作者が取る視点というのは、かつてわたしが観て大きなショックを受けた1995年の展覧会、『戦後文化の軌跡 1945-1995』のコンセプトに近いものがあるとは思った。
 「戦後文化の軌跡」展は、かなり多数のスタッフによる共同討議などを経て企画された展覧会で、「大衆文化と前衛」とでもいった切り口から、戦後の「洋画」「日本画」などの美術に「生け花」などにも視線を巡らせ、この『商業美術家の逆襲』と同じように、デザインや漫画も紹介し、さらには映画や演劇までも含めての「総括・戦後総合文化展」みたいな展覧会だったわけで、それまでどんな美術館でも展示されなかったような種類の作品にあふれ、読みごたえのある「図録」と共に、今でもわたしの記憶にしかと焼き付いた展覧会だったわけだ。
 それでけっきょく、この『商業美術家の逆襲』が「今までの美術史の見直し」から、この本の著者の言う「商業美術家」にスポットをあてるということには、グラフィック・デザインや漫画にも視野を拡げているということでも、『戦後文化の軌跡 1945-1995』の企画コンセプトを思わせられるのだった。

 ただ、こうやって近代の美術作家の何人かの「評価し直し」を誘うような本であれば、それは美術史的な評価のみならず、その作家に対しての「美術市場」にも影響を与えるだろうわけで、なんだか「別の思惑」も思ってしまうようなところもあった。

 挿画がかなりの数挿入されていて、それがすべてカラー図版だということで、「新書版」という大きさの本ではあるけれども、「小さな美術書」として、満足できるものではあった。