朝、出勤する前にスマホで今日の天気予報を見てみる。この朝は6時ぐらいまでは晴れで、そのあとは終日曇り、降水率は10パーセントだと言っておる。「これならば折りたたみ傘をバッグに入れておくこともないか」と、折りたたみ傘はバッグから出して部屋に置いて家を出た。
外は真っ暗なので、空が晴れているのか曇っているのかはわからない。ただ、今の時期晴れていれば見える南の空の星も見えないので、きっと曇っているのだろう。駅の方へ歩いて行くと、これは何だか「雨」っぽい。雨ではないのか。これは予報で言っていたのと違うではないかと思いながら駅へと歩いたが、その雨はだんだんと強くなり、駅が見えてきた頃には「これは傘をささなくては」という雨量になっていて、けっこう全身しっとりと濡れてしまっていた。
‥‥「何ということだ!」とは思う。予報ではこの時間帯は「晴れ」と表示されていたではないか。普段はいつもバッグに折りたたみ傘を入れていたのに、今日は余計な「予報」を見てしまったばかりに、ひどい目に遭ってしまったではないか。
もちろん、予報を出した方は「だから降水率は10パーセントはあるって書いてたでしょ!」と言うのだろうが。まあやはり、バッグにはいつも、どんなときにも折りたたみ傘を入れておくべきだ。
職場に着いてからも、8時ごろにやはりちょっと雨になったが、そのあとは雨もやんで曇り空になった。
今日は月曜日でもあり、仕事の帰りは南のドラッグストアから「ふるさと公園」のルートを取った。
「ふるさと公園」を通り抜けようとしたら、芝生の中の木に桜のような花が咲いているのが目に入った。「おや」と思って近づいてみると、この木は「十月桜」というもので、あとで調べたのだが、普通の桜のように春にも咲き、こうやってもう一度、今の時期にも咲くのだという。
この日はまず、池の方にシラサギが2羽、違うところに来ていた。
そしてコブハクチョウだが、この日は「この鳥は親鳥ではないのか?」というハクチョウが、1羽ずつ別々のところにいたのだった。
‥‥子どものハクチョウの姿はあたりには見られなかった。この4月の末に雛たちが孵化して以来、この家族5羽が離れているところは目にしたことはなかったけれども、それから5ヶ月ぶりに、どうやら家族は「離散」し、子どもたち3羽は「ひとり立ち」して、親鳥から離れて行ってしまったのではないだろうか。
もちろんじっさいのところは今のわたしには知り得ないのだけれども、時期的にも子どもたちは親鳥から離れて行ったと考えるのが自然な気がする。
でも、その5羽の家族が「もうこれからは離れて暮らそうや」というとき、いったいどういうサインを出すのだろうか?
それは親鳥の方が「もう時期が来たからあんた方はこれからは自分たちだけで生きて行きなさい!」と突っぱねるのか、それとも子どもたちの方が「おとうさん、おかあさん、わたしたちはもう、これからは自分たちの力で生きて行くよ! さようなら!」と別れて行くのか。まあそれはきっと、親鳥の方からサインを出すのだろうという気はするが。
でも、子どもたち3羽はいったいどこへ行ってしまったのだろうか。きっと手賀沼の方へでも行ってしまったのではないかと思うけれども、また会いたいものだと切に思うのだった。
帰り道、道ばたに栗のイガが落ちて転がっていた。中の栗の実は失せていたけれども、まさに「秋」だなあというような感慨になる。もう今は、近所のスーパーでも栗の実がいっぱい売られている。「栗ご飯」とかやりたいなあとも思うが、もう栗の皮を剥くのがどれだけ大変か、しっかりと記憶されているので、いくら安くっても「栗の実」は決して買うことはないのだ。
帰宅して昼食(また昨夕と同じく、「ざるそば」と「いかげそ天ぷら」なのだ)をすませ、テレビをみると、相も変わらず自民党の総裁選挙の話題、そしてこのところは急に皇室の結婚話ばっかりである。自民党の総裁選挙のことについてはまた改めて書こうと思っているけれども、今の段階でわたしはまったく関心はない。そして皇室の話など、これっぽっちも興味はないのである。そういうことをやっていない放送を探すと、普段は日曜日の朝にやっている「さわやか自然百景」というのをやっていて、「これ、これ!」と喜んでみるのだった。
そのあと、昨日読み終えられなかった『ノーラ ジェイムズ・ジョイスの妻となった女』を読み、夕食前に何とか読み終えることができた。
夕食はまたまた「ざるそば」と「いかげそ天ぷら」ということになり、もうこの献立はこれでおしまい。そのあと、『ジェイムズ・ジョイス伝』を読み、寝る前に読み終えた。1、2巻合わせて読むのに半年ぐらいかかったように思うが、とにかくはようやっと読み終えた。さあ、明日からは何を読もうか?