ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『ノマドランド』ジェシカ・ブルーダー:原作 クロエ・ジャオ:脚本・編集・監督

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 フランシス・マクドーマンドが主演してまたまた今年のアカデミー賞の「主演女優賞」を受賞したということ(これで3回目?)、そのアカデミー賞で「作品賞」と「監督賞」を受賞した作品だということ、監督のクロエ・ジャオは中国生まれの中国人だということ。これだけの予備知識で、どんな映画だかまったく知らないでこの映画を観た。
 わたしはアカデミー賞を受賞したからといって「観たい!」と思う人種ではないので、この映画を観たのはフランシス・マクドーマンドが出ているからということ、そして監督のクロエ・ジャオが中国の出身だということから、この映画を観たのだ。

 フランシス・マクドーマンドは主人公ファーンという女性を演じている。リーマン・ショックの影響で、ファーンの住んでいた町の経済を支えていた工場が閉鎖され、町は消滅してしまう(町の郵便番号が消えてなくなったのだというナレーションがあった)。
 ファーンの夫はすでに亡くなっていて、一人暮らしのファーンは町で学校の教員をやっていたらしい。町に住む人がいなくなり、ファーンもわずかな夫との思い出の品(お皿)と生活用品と共にバン(キャンピングカー)で町を出て、「定住」を求めるのではなく、短期の仕事を移り変わりしながら、各地を流浪するのである。そんな流浪の過程で、ファーンはさまざまな自分と同じような人々と出会い、交流するのだった。

 映画が終わり、流れるテロップをみていると、たいていの出演者が、その名前と映画の中での役名とが同じなことに気づいた。ああ、これは出演者らは「当人自身」として出演しているわけだな、と想像した。
 映画のパンフレットは買わなかったけれども、帰宅して調べるとまさに、出演者らはその当人として出演していたのだった。

 さてわたしは、こういう「キャンピングカー」を住まいとしてアメリカ中を移動して暮らしている人々というのは、けっこう昔からいたのではないかと思い、調べてみた(『ロリータ』のハンバート・ハンバートはちがうな)。
 こういう「キャンピングカー生活者」のことを「ワーキャンパー(キャンプする労働者?)」というらしいけれども、検索して映画の原作『ノマド: 漂流する高齢労働者たち』を基にするコラムにぶち当たった(このコラムは、この映画公開のずっと前に書かれたものだ)。映画にも登場するボブ・ウェルズやリンダ・メイらの話も書かれ、「なぜワーキャンパーは白人しかいないのか」「なぜAmazonが彼ら、彼女らの一時的な勤務先になるのか?」という理由も書かれ、刺激的だった
(言うまでもなく、この原作の『ノマド: 漂流する高齢労働者たち』は「ノンフィクション」である)。
 いつまでそのコラムが閲覧できるかどうかわからないが、ここにリンクさせておきます。

アメリカの知られざる下級国民「ワーキャンパー」の増加が意味するものとは?

 このコラムに書かれているようなことは、ひょっとしたら映画のパンフレットに掲載されているようなことなのかもしれないけれども、今まで知らなかったアメリカの「貧困」を知ったわけで、それこそ「目からウロコ」だった。
 「ワーキャンパー」らはアフリカ系の人たちのように最下層ではないとはいえ、やはり「下級国民」なのだ。そしてその背景には、日本でいえば「生活保護受給バッシング」のような、アメリカでの「年金受給バッシング」の問題もあるようだ。

 これはこの映画の「背後」にある社会的現実を知らしめられるものだったが、実は映画にはそのようなことを説明しようとしたり、登場人物らの社会への呪詛などが聞かれるようなことはない。それがこの作品の演出のいいところでもあり、登場人物らが自分自身の役で出演していることからも、一種ファーン役のフランシス・マクドーマンドを「案内人」としてのドキュメンタリー的な作品ではあるのだ。だからこそ、まったく演技経験のない人たちが生き生きと画面に定着されている(フランシス・マクドーマンドの、他の出演者たちへのとけ込み方が素晴らしい!)。おそらくは「原作」のノンフィクションにプラスして、ファーンの部分は脚本のクロエ・ジャオが「創作」したのではないかと思える。
 そんな中で、フランシス・マクドーマンドの「演技を感じさせない演技」は見事なもので、この「ワーキャンパー」らの世界へ、自らも「ワーキャンパー」となって潜入したように感じさせられる。

 主人公ファーンは、わたしの眼には「意識的なアウトサイダー(離脱者)=自ら望んで<社会>から外に出た存在」のように映ったが、彼女の眼に映るものと他の登場人物らが見ていたものとは同じなのだろうか。
 何度も繰り返される、夕暮れ(朝焼け)の大きな空の手前で歩むファーンの姿が印象に残る。シンプルな音楽もいいのだが、この独特の作劇をけん引する「編集」が、演出と一体になってとってもいいなあと思って観ていたのだが、この編集もまた、クロエ・ジャオ監督によるものだった。脚本にプラスして、やはりこのクロエ・ジャオという人、独特の「才人」だろうと思える。実は主演のフランシス・マクドーマンドはこの作品のプロデューサーでもあり、この作品の演出にクロエ・ジャオを指名したのはそのフランシス・マクドーマンドだったのだという。素晴らしい!

 「クロエ・ジャオ」という監督の名は憶えたので、きっと次回作も観てみたいと思うのだった。