日記の方に書いたように、この映画のもとになったのは1892年に起きた「リジー・ボーデン事件」で、当時この事件を歌にした戯れ歌も流布し、アメリカ中でよく知られる事件となった。
Wikipediaにもこの事件の詳細が書かれているが、この映画は、そのようなよく知られた事実から離れて製作されている。
この映画の製作は、主演のクロエ・セヴィニー自らが行っており、つまりはクロエ・セヴィニーはこのリジー・ボーデンを自ら演じたい、との意図を持っていたのだろう。ちなみに、彼女のキャリアの中で今まで、プロデュースを行った作品はこの作品だけのようだ。
原題はただ「Lizzie」なのだけれども、邦題はまるでこの映画の内容に合致しない、ミスリードを誘うようなひどいタイトルになってしまっている。同じく、公開時のポスターやDVDのジャケットもひどい。これではクロエ・セヴィニーもクリステン・スチュワートもかわいそうだ。
「リジー・ボーデン事件」とはつまり、マサチューセッツの名士であったアンドリュー・ボーデンと、その妻(後妻)のアビーとが、斧で惨殺された事件で、その事件の時間、家にいたのは殺された二人の他にはリジー(クロエ・セヴィニー)と召使いのブリジット・サリヴァン(クリステン・スチュワート)しかいなかったわけで、特にさいしょに父の死体を発見したリジーに嫌疑がかかったが、裁判の結果リジーは無罪放免になったという事件。
リジーに不利な状況証拠はあれこれとあったが、陪審員らは「地元の名士の娘が殺人を犯したと考えたくない」という心理がはたらいたもの、とも言われている。その後、この事件のことを考える人はほとんど皆が皆、リジー・ボーデンこそが犯人だっただろうと考えたようだ。殺人の動機は、父アンドリューの遺産が継母のアビーが相続することとされたことにあるといい、さらにアンドリューの性格の「冷酷さ」ということもあったとされる。
この映画は、召使いのブリジットがリジーの共犯者だったとの見方でつくられている。
文字の読めなかったブリジットにリジーが文字を教え、ブリジットはリジーに手紙を書けるようになる。だんだんに二人は親密になり、愛し合うようになる。
一方、父のアンドリューはブリジットに性的関係を無理強いしてもいて、この映画ではブリジットにアンドリューへの恨みがあったとする。ブリジットとリジーが愛し合っていた現場をアンドリューに見られ、リジーはアンドリューに激しくとがめられる。
その夜、リジーはアンドリューの書いた遺言書を火にくべる。そしてのちに夫妻の殺害へと至るわけだが、リジーはさいしょアンドリューの殺害はブリジットの手にゆだねようとするのだが、果たせないブリジットを見かねて、アビーと同じようにリジー自らがアンドリューも殺害する。
映画は非常に静寂とした空気の中で進行し、室内の撮影も美しく、わたしの好きなデンマークの画家ハマスホイの作品を想起させられもした。また、夜の室内はアンドリューの吝嗇のためにガス灯を引かず、時代遅れにろうそくの明かりにのみ頼っていたのだが、そのこともまた、映画のトーンを深くしていたように思う。
控えめな音楽も心に残り、「斧での惨殺」という煽情的な映像を含みながらも、クロエ・セヴィニーとクリステン・スチュワートの抑えた演技こそが印象に残るのだった。そこに、今の時代のLGBTQへの視線も読み取れるようにも思った(この映画で、クロエ・セヴィニーのやりたかったことだろうか)。
やはり、この監督のクレイグ・マクニールという人の繊細な演出のインパクトが大きく、この人はまったく知らない監督さんなのだが、ずっと以前に何も知らずにアンドリュー・ドミニクという監督の『ジェシー・ジェイムズの暗殺』を観たときのショックに近いモノがあり、「わたしはここに<才能>を見つけたぞ!」という気分にはなった。思いもかけずに優れた映画に出会い、それこそ「石油を探していたら油田にぶち当たった」気分になった。