ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

2021-04-09(Fri)

 昨朝は曇っていて月の姿は見られなかった。今朝はどうだろうと気にしながら駅への道を歩いたのだが、建物の切れ目から見られる低い位置に、ずいぶんと細くなったその姿を見ることができた。この位置でこの細さでは、もう来週にわたしが家を出る時間には月は見られないだろう。
 もう「三日月」とも呼べないような細い月で、三日月より細い月は「二日月」というのだが、あとで調べたら「二日月」というのはほんとうに糸のように細い月のようで、やはりこの朝見えた月は「三日月」と呼ぶにふさわしいことがわかった。
 前のカメラではぜったいに撮影できなかったのだけれども、新しいカメラでの「夜景モード」ではどうだろうとカメラを向けてみたが、まさに見たままに美しい姿を撮影することができた。ただ、じっさいには空はもう少し明るかったので、後処理で明るさを調整し、夜空の雲が確認できるようにした。

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 駅のそばまできて、もういちど東の空を振り返って撮影してみた。ちょっとの距離を歩いただけの短かい時間でも、ずいぶんと明るさに変化が見られるものだ。

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 となり駅の書店に注文していた本が2冊ともそろったというので、仕事の帰りに受け取りに行った。注文してから、まさにちょうど2週間かかったわけだ。「そういうものだ」と思っていれば、そんなに「なかなか来ない」というほどの日にちでもない。

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 ジョイスの『若い藝術家の肖像』は、今読んでいる『ダブリンの人々』の次に読む予定だ。
 もう一冊のデヴィッド・グレーバーの『アナーキスト人類学のための断章』は、今ごろになって知ったデヴィッド・グレーバーの著作でさいしょに手にする本である。本のタイトルにあるように、彼はアナーキストであり人類学者であった。
 実はわたしは高校生の頃にアナーキズムの文献を読み漁った人間ではあった。アナーキストとしての「活動」に足を突っ込んだわけではないが、自分の周囲に渦巻いていた左翼運動の中で、アナーキズムの視点からマルクス主義などに一定の距離を取ることができたことは、その後のわたしの歩みにとって大きな意味を持っていた。アナーキズムとは「夢想論」さ、という否定の声は大きく、運動の大きな流派をかたちづくることはなかったけれども(そのこともまた、わたしには「マイノリティ」への共感という視点を与えてくれたし、「フェミニズム」への共感意識にもなっていることと思う)、21世紀になってから出現したトニ・ネグリマイケル・ハートの『マルチチュード』論にはアナーキズム理論が読み取れたし、近年の柄谷行人氏の「世界共和国」という考えにはアナーキズムへの近接があると思う。
 わたしにとって、「アナーキズム」とはいつのときも「自己決定」のよすがではあった。アナーキズムとは過激なものだと思われていたこともあったけれども、クロポトキンなどをみても、彼の生き方は「穏和」なものだっただろう。わたしもよく自分のことを「穏和なアナーキスト」でありたいとは思ってきたのだけれども、今日この日記を書こうとして「アナキズム」について調べ直していたら、あの台湾のオードリー・タン氏が自らを「保守的なアナーキスト」と呼んでいることを知った。
 「アナーキズム」は日本語では「無政府主義」と翻訳され、そのことがいろいろな「誤解」を生んでいる。ジョン・レノンの『イマジン』の「国家なんてないと想像してごらん」という一節はまさに「アナーキズム思想」だと言われることもあるが、このこともひとつの「誤解」のタネでもあると思う。「アナーキズム」というと「国境のない世界」と思われ、それはそれで最終目標ではあるかも知れないけれども、現在の世界情勢の中でアナーキストが国境を無視した政策を立て、行動をしてもバカなだけである。わたしはこの件で「僕はアナーキズムのシンパだ」という男が国境紛争のことなどまるで理解しようとしないので口論になり、あげくに絶交したことがあるのだ。「サパティスタ民族解放軍」のことを勉強するがいい。まあ、こういうこともいずれもっともっと自分の考えを書いてみたいとは思っているけれども。
 こうやって現代でもアナーキズム思想は生き続けてきていたわけだけれども、わたしも近年は社会思想・社会運動に無関心だったりして、このデヴィッド・グレーバーという人のことを近年まで知ることはなかった。そして彼のことを知ってみると、悲しいことに彼は去年の9月に60歳にもならずに逝去されていたのだった。
 彼にはいくつかの重要な著作が遺されているわけだけれども、『マルチチュード』も忘れられかけた今、これからデヴィッド・グレーバーの著作をいくつか連続して読んでみようと思っている。

 仕事から帰ったあと、ついに自宅そばの歯科医のドアを開けた。「歯の痛みもないし、コロナ禍で歯医者に行くのがおっくうになり、こ~んなになるまで放置しちゃいました」などと言い訳をして、治療の椅子に坐った。
 けっこう大きな歯科医で、ビルの空き室を歯科医院として改造したのではなく、さいしょっから歯科医院として設計された建物のようだった。治療椅子は4つ並んでいるが、今は医師が一人、看護士一人と受付のおばさんとの3人でやっているみたいだ。

 「出来るだけ、残っている部分を活かしたいですね」ということだけれども、もう危うい歯もあるようだ。今日はまず、先週欠けてしまった右上のところを治療。ガリガリやられる。痛い。まさに「歯医者」である。2時から治療を始め、終わったのは2時45分。まあ30分はガリガリとやられた感じだ。「お疲れさま」といたわられたが、たしかに疲れてしまった。歯科医の先生も疲れただろうが。
 次の治療は来週の金曜日ということで、どうやら週に一回のペースでの治療になるのだろうか。なんか、自分の予測では半年はかかりそうな気がするな。

 夜、久しぶりに映画を観ようかと、デヴィッド・フィンチャー監督の『ソーシャル・ネットワーク』を観始めたが、ぼんやりと観ていたもので40分ぐらい観たところでよくわからなくなり、観るのをやめてしまった。