ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

2021-04-04(Sun)

 歯医者に行かなければと昨日ウチのそばの歯科医の前を通ってみたが、前は日曜日だけが休診日だったのが、今はCOVID-19禍のせいで週に3日だけの診察・治療になってしまっているようだった。昨日は診療はやってたけれど、わたしの準備ができてないので行かなかった。

 新しいデジカメのテストのつもりで、ニェネントくんをいろんなモードで撮ってみた。

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 1枚目は「オート撮影」だが、ちょっとブレてしまっている。2枚目は「絞り優先モード」というヤツで、絞りについては何もいじらないでデフォルトのままで撮ったもの。暗い。3枚目は「シャッター優先オート」というもので、おそらくここでシャッタースピードを選べるのだろうが、ここでも何もいじらないでそのまま撮影。きれいに撮影されている。4枚目は「プログラムオート」という。何もプログラムしないでそのまま撮ったが、これもクリアに撮れた。4枚見た中では、「プログラムオート」がいいように思うが(っつうか、ニェネントの横顔がきれいなだけか?)、な~んにもプログラムしてないんだからどうこう言うことは出来ないな。

 基本的に不調である。何もやる気がしない。またアルコールの量も増えてしまった。本もあまり読み進められないし、映画を観る気にもならない。
 いちおう通勤の時とかにジェイムズ・ジョイスの『ダブリンの人々』は一日に一篇ずつぐらい読み進めている。一篇が十数ページと短かいからもっと、一日に数篇は読み進められるのだけれども、今は一篇を読んだ読後感をそれぞれ大事にしたいと思っている。
 この日記には読んだ本の感想も書いているのだけれども、こういう短篇集のときはその都度、読んだ日にその日の日記の中に読んだ短篇の感想を書き、すべて読み終わったときにトータルな「一冊の本」としての感想を書くべきだったかと思う(前にパトリシア・ハイスミスの短篇集を読んだときにはそうやったはずだ)。

 さて、<聖火リレー>は、連日どこかで継続されているようだけれども、相変わらず批判の声は大きく聞こえてくる(テレビや新聞は決して批判しないようだけれども)。肝心の聖火ランナーを先導するスポンサー4社、4台のマイクロバスというか宣伝車への批判が強い。スポンサーとはNTT、トヨタ日本生命、そしてコカ・コーラの4社だけれども、特にわたしが見た映像ではいつも先頭を走っているコカ・コーラ社の「喧噪」はたしかに酷いだろう。大音量の音楽とともに、その宣伝車のまわりを並走する女性サポーターらが周囲の観客に何かを手渡しする。宣伝車の上では「DJ」というふれこみの若い男性がマスクもつけずにがなり立てている。それが「くよくよと考えてないで踊って楽しもうぜ!」みたいなことをしゃべくっている。「あれ?人混みの中で大声を出しちゃいけないんじゃなかったっけ?」というか、渋谷あたりでこそやりそうなイヴェントを、例えば福島とかの<もうちょっとちがうものを見たかった>と思うにちがいないような人たちの前でやって、宣伝効果になると思っているのだろうか?
 こんな「お祭り騒ぎ」、つまりJOCはコレをやりたくって<緊急事態宣言>をも無理矢理に終了させて<聖火リレー>を強行したのか、ということは思ってしまう。

 これはおそらくはJOCの作成してるであろう「TOKYO2020」というサイトに、「~東京2020オリンピック聖火リレーを支える人たち~」というコラムが掲載されていて、その「チーム コカ・コーラ」の「オフィシャルMC」だという人物(この人物が宣伝車の上でガナッていたのだろう)の紹介記事が掲載されている。これが(その「オフィシャルMC」氏には申し訳ないが)噴飯モノのバカバカしさで、「壮大なジョーク」なのだろうかと思ってしまう。
 彼はそこでまずは「コミュニケーションを取るようなMCのやり方を考えている」と語るのだが、道路の中央を走る<威圧的な>宣伝カーの車上の高い位置から、まさにフィジカルにも「上下関係」丸出しの中で、高いところからマイクを使って大音量でしゃべくりまくるこの「オフィシャルMC」氏が、はたしてどこまで沿道の観客と「コミュニケーション」を取ろうとしていたか、はなはだ疑問ではある。さらに彼は「相手とのキャッチボールを大事にしている」などとのたまうのだが、ぜ~んぜんそんなこと眼中にないのではないか。あきれてしまう。
 彼が語るのはさらに、「大げさに言えば、人間は『感動するために生きている』ようなところもあるじゃないですか。オリンピックには人生を懸けて勝負をする人が集まっています。これだけその歴史が続いてきたというのは、感動こそが(人間の)すべてなのかなとも思います」ということだ。

 言っちゃ悪いが、わたしは今のこういう<薄っぺらな>「感動」という言葉が大っ嫌いだ。最近は何かというと人々は「感動」し、自分が感動したと思うと「感動をありがとう!」とまで絶叫するのが流行りになっているみたいで、わたしはこういう言葉を聞くたびにおぞましい思いがする。
 こういうのは、ずいぶんと前に当時の総理大臣が相撲の千秋楽の優勝を決定する一番を見て、「総理大臣杯」を授与するときに「感動した!」と言ったあたりから始まってるのではないかと思うのだけれども、それ以来、みんながみんな「感動」を求め、「感動した!」と思いたがっているのではないかと思う。あの時の総理は、そもそもの今の日本への路線を決めた張本人だし、いろいろと罪作りだ。

 もうちょっと「感動」のことを書こう。「感動した!」のひとことですべて了解してしまえば、例えば小説のことでいえば、そのあたりの読み捨ての「ラノベ」を読んで「感動した!」ということと、プルーストを読んで(ココの例にはジョイスとかナボコフの名を出そうかと思ったけれども、ま、プルーストがいいでしょう~この選択も深く考えると問題アリだけれども~)「感動した!」ということは、まったく「同列」になってしまう。それは違うのだ。
 ある小説を読んで、自分の中で「感動」と言うしかないような「心の動き」を感じたとしたならば、じゃあその「心の動き」とは何だったのか、ということを深く考えることこそが、小説などを「享受」する上での道筋ではあるだろう。それは「反省行為」ということでもあり、そのような反省なくしてただ「感動した!」でクローズさせることは、自分の思考の可能性を閉じさせることなのだと思う(まあ今わたしのこの日記で「感動」という言葉をサーチしてみると、それなりに「感動的」という言葉は使っているのだけれども)。

 例えば今、わたしはニェネントとわたしが名付けたネコといっしょに毎日暮らしているのだけれども、そのニェネントとの暮らしの瞬間瞬間、毎日毎日それぞれに「感動」しているわけではない。しかし、ニェネントとの生活は、「感動」などという言葉ではあらわしつくせない喜びとか慈しみ、その他あれこれいろいろなことをわたしに与えてくれている。そのことを「感動」というつまらない言葉に置き換えようとは思わない。それはもっともっと、言葉では語り尽くせないものだ(どうしても言葉にしなければならないのなら、それは「愛」だろうか)。何もかもすべてに「感動」を求めて生きるなら、人はもっともっと大切なものを見逃してしまうのだ。感動することを捨ててみよう!

 ‥‥「不調」な中、ちょっと言いたいことを言ったらスッキリした。少し前に進めそうだ。こういうところが、「日記」を書くことの効用だろうかね。そういうことでは、<聖火リレー>の愚行に感謝しなければいけないのかもしれない。