ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

2021-01-30(Sat)

 二日前の話だけれども、早朝に通勤の電車に乗っていたとき、わたしのとなりに座ってらっした年配の男性、もちろんマスクをかけておられたのだけれども、やおらそのマスクを片耳外し、わざわざ口を露出した状態にして、そこで大きなくしゃみをされたのだった。わたしは下車する駅が近づいていたのでちょうど席を立ったところだったから、そういう意味で「被害」はまぬがれたけれども、おどろいた。
 前にそういう、「咳やくしゃみをするときにマスクを外す人がいる」というのは読んだことがあったけれども、じっさいに存在しておられたか。
 そのような方にとってのマスクの役目は「外からのウィルスを遮断する」ということ、つまり「自分のウィルス感染を防ぐ」ということだけで、一方での「自分が感染しているかもしれない、そんな場合、自分から外へのウィルスの拡散をマスクで防ぐ」という思考の持ち合わせはないのだろう。つまり、「オレはぜったいに感染していない」という考えだろうし、わざわざくしゃみをするときにマスクを外すというのは、マスクを汚したくないという考えなのだろうか。
 今は外出のときにはほぼすべての人がマスクを着用しているし、わたしなどもそれである程度の「飛沫感染」が防げるとは思っている。それが、自分のそばの人がマスクを外してくしゃみをするというのは、マスクの効果を無効にして外に「飛沫」をまき散らしているわけで、たとえその人が「オレは感染してないもんね~」と思っていても、他人はそんなことは了解しないのだ。それぞれの人が、「もしかしたら自分も、無症状で感染しているかもしれないのだ」という思考が取れなければ、COVID-19禍は収束しないだろう。

 わたしの勤め先のビルにもいまだ「喫煙室」が設置されていて、これはウチのビルのオーナーが喫煙者だということとも関係しているのだろうけれども、いちおう管理の方では喫煙室にいちどに入る人の数を制限し、「喫煙室内で会話は交わさないで下さい」、「喫煙を終えたら速やかに退室して下さい」と掲示しているのだけれども、これを守らない人はけっこういる。それらの人たちは「喫煙室」とは「社交場」と思っているのか、マスクを外して喫煙しながら談笑しているし、(在室時間をちゃんと把握しているわけではないけれども)かなり長いあいだ在室される方々もいる。
 いちおう「喫煙室」だから、空気清浄機は設置しているとはいえ、まさか瞬時に人が吐き出すつばの飛沫を吸い込むわけもない。見ていて、「あんなにはっきりと書いて掲示してあるのに、どうして守ってくれないんだろう」とは、喫煙室の前を通るたびにいつも思うことである。そういう、喫煙室に長居して談笑する人たちもやはり、「オレは感染してないからね~」という思いがあるのだろう。そうやってこのビルの中からクラスターとかが発生してしまったら、わたしなんか大変なことになってしまうわけだけれども。

 このところ、東京の新規感染者数は千人以下になって来ているようだけれども、これも基準となるPCR検査数を少なくしている結果だという見方もある。
 わたしもこの正月に風邪の症状が出たとき、「これはいちおうPCR検査を受けるべきだろうか」と、いろいろと調べたのだけれども、つまりはこれがなかなかに面倒で、受けようと思っても受けられない可能性も強い。そんな中、今では朝の通勤電車の中の広告で、どこかの医療機関(企業)が、「来院不要・唾液で簡単」というPCR検査の広告を出している。一回の検査で一万五千円の自己負担で、まあ国民健康保険など適応されない「営利」ではあるだろう(こういうのが、スカ首相の目指すところでもあるのか)。こんなことは普通、国の政策で全国民が「無料」で検査を受けられるのが当たり前ではないかと思うのだが、そういうことをまったく推し進めないスカ内閣の「無策」の結果だろう。
 それが昨日になって、政府自民党は党の全職員に対してPCR検査を実施することを決定したという。こうやって国民がPCR検査を受けたくても受けられない状態の中で、「自分たちだけ」優先的に検査を受けるということへの「反撥」が拡がっている。その前には、やはり自民党の石原元幹事長がPCR検査の結果「陽性」と判定され、自覚症状もないのだが「念のため」優先的に入院したということが報道されてもいる。
 わたしたち一般の国民はPCR検査も受けられず、COVID-19に感染して症状が出ていても入院が出来ないという現状だというのに、スカ内閣は何でも「自民党優先」なのだ。そのうちにワクチン接種も始まるような報道もあるが、コレも当然「身内優先」で、一般の国民は「あとまわし」とされることだろう。スカ内閣のキャッチフレーズは「国民のために働く内閣」というのだけれども、こんなに滑稽なコトもない。前のアベ首相も「世紀の大ウソつき」だったけれども、今のスカ首相はこの「国民のために働く内閣」というあまりに強烈なギャグたったひとつで、アベ首相を凌駕してしまった感がある。

 今朝も、和室の窓のカーテンのあいだから、夜空の月の光が漏れてくるのだった。どこか神秘的な空気感だ。

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 今日は「また映画を観よう」と、午後から『ガメラ3 邪神〈イリス〉覚醒』などというのを観てみた。途中で「観るのをやめよう」とも思ったけれども、がんばって全部観た。

 そのあとは、テレビで放映された山口百恵の「引退コンサート」の全映像、『伝説のコンサート“山口百恵 1980.10.5 日本武道館”』というのを、全部観てしまった。
 40年前の映像。わたしは特に百恵ちゃんのファンだったというわけでもないけれども、やはり当時はどこにいても百恵ちゃんの歌は耳に届いたし、自然と彼女の歌ったヒット曲も記憶しているわけで、その「記憶率」というのは、他の歌謡曲アイドル歌手らのヒット曲の比になるものではない。例えば日本のポピュラー(歌謡曲も含む)歌手というと、美空ひばりこそが「国民的歌手」だったという声があるだろうけれども、まああまりにウェットすぎる美空ひばりの「空気」とくらべ、山口百恵はどこか「カラッ」としているところがあった。
 そのことを今日観たライヴでも確認したけれども、やはり「清純な少女」から「はすっぱなすれっ枯らし」という、振幅の大きな少女の「二面性」を、ここまでウェットに引きずらずに「スカッ」と表現したのは、偉大なる才能だっただろう。この路線を彼女の引退後に中森明菜が引き継ごうとしたけれども、けっきょく(残念なことに)ウェットに流れてしまった。
 今日観たライヴでは、やはり阿木燿子・宇崎竜童コンビで書かれた曲での彼女が輝いていたのだけれども、彼女はまだハイティーンの頃に自ら「阿木燿子・宇崎竜童の曲を歌いたい」と申し出たのだという。他人にプロデュースされることを「善し」とするのではない、自分のことをよく知る「アーティスト」としてのセルフ・プロデュースだったわけだ。
 ほとんどロックにも近接したこのライヴで、「これって、プログレじゃないの?」みたいな『曼殊沙華』という曲ををクライマックスとした流れには、わたしもちょっと感涙してしまいましたね。

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 今日は昼食はインスタントの「とんこつラーメン」で軽くすませたけれども、夕食にはがんばってサブメニューに久々に「ポテトサラダ」をつくり、メインには「鶏手羽元のローストチキン風」というのをつくった。
 とってもうまく出来たのだが、いつもなら出来た料理をちゃんと写真に撮っていたというのに、今日はサッサと食べてしまったのだった。