ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『ウンベルトD』(1952) ヴィットリオ・デ・シーカ:監督

 この映画のタイトルは昔から聞き知ってはいたけれども、どんな映画なのかということはまったく知らずにいた。わたしは勝手に、『ウンベルトD』というのは何か戦争時の作戦名か何かではないかと思っていたりしたのだ。
 しかし観る前にかんたんに予備知識を得て、『ウンベルトD』というのは、主人公の初老男性の名前(正確には「ウンベルト・D・フェラーリ」)だということがわかり、彼が支給されている年金額の不足から現在の住まいを立ち退かなければならない状況にあるということを知った。現在の日本でも年金支給額はどんどん削られているわけだし、アクチュアルな意味を持ちそうな映画だと、期待して観ることにした。

 まず映画は、「年金支給額の引き上げ」を要求する街頭デモのシーンから始まるけれども、俯瞰撮影からデモ参加者の群衆の中での移動撮影、デモを蹴散らす警察の車からの撮影などを駆使、編集して、とっても立体的な映像になっていた。
 主人公のウンベルトは愛犬のフライクを連れてデモに参加しているけれども、デモは「無届け」ということで散会させられてしまう。ウンベルトは住まいの下宿の家賃も滞納していて、これを払わないと住まいを追い出されてしまうおそれがある。下宿の使用人のマリアはウンベルトに親身になって、いろいろと親切にしてくれるのだが、彼女自身妊娠していることを女主人に隠していて、その父親もはっきりとはわからないのだ。まあ「お人好し」というのか。そんな彼女も、台所でひとり涙を流したりもする。
 ウンベルトはのどを患い(どうやら扁桃腺炎らしい)、イヌのフライクのことをマリアに託して入院する。病院には「入院していればそのあいだ食費が浮く」という困窮者たちがおおぜいベッドに寝ている。
 けっきょく退院させられたウンベルトが部屋に戻ると、女主人がドアを開け放っていたせいでフライクは外に逃げて行ったという。フライクを探し回るウンベルトは保健所へ行き、処分されるのを待つ迷い犬の中にフライクを探す(このシーンがやるせない)。そんなとき、フライクを乗せた保健所の車が到着し、ウンベルトはフライクと無事に再会する。
 持っていた懐中時計もわずかな本も売り払ったけれども、滞納家賃には足りない。「物乞い」をしようかとも思い、街頭でいちどは歩く人に手を差し伸べるが、やはり彼にはできない。

 一方、住まいの女主人はもうウンベルトが出て行くものとして、ウンベルトの部屋の改装もやり始めている。ウンベルトは決心して、わずかな手荷物を手に、フライクと共に家を出る。いちどは商売で犬を預かっている夫婦のところにフライクを預けようとするが、そこにいる犬たちを見て、預けるのをやめる(そのとき、ウンベルトはフライクを見捨てようとも思っていたようだが)。
 ウンベルトはフライクを連れて子供たちの集まる公園へ行き、フライクに興味を持つ子にフライクを譲ろうとするが、その親が出てきて「とんでもない」と断られる。でもウンベルトはフライクを公園に置いて物陰に隠れ、フライクが誰かに連れて行かれるのを待つのだけれども、ウンベルトを探すフライクに見つかってしまう(涙)。
 ウンベルトはついにさいごの覚悟を決め、電車が来ようとする踏切の中に、胸にフライクを抱いて入っていく。もっと前に、自分の部屋から下を走る「電車の線路」を見るウンベルトのシーンもあり、そこでも「ウンベルトは自殺を考えているのか」ということは想像できたのだが。
 けっきょく、直前にフライクが暴れて逃げ、ウンベルトもそれを追って行き、ウンベルトはフライクとじゃれ合いながら公園の奥へと遠ざかっていく。

 ウンベルトとフライクに、このあとどんな運命が待ち構えているかはまったくわからない。お人好しのマリアのその後も心配ではあるけれども、そういうことは観客に、この映画公開当時のイタリアの様子から想像させようというのが、まさに「ネオレアリズモ」らしくもあるのだろうか。
 しかしやはり、この作品でいちばん心を打つのは、主人公のウンベルトと愛犬フライクとの「絆」だろう。人に懐いたフライクを演じるイヌの「名演技」もあるけれども、観ていると前半と後半ではフライクを演じるのはちがうイヌだろうと思った。

 貧しく困窮する人、その対極にいる美しく着飾る女主人らの存在、そして知り合いであっても「金の無心」の用だと気づくと、話も聞かずに逃げて行く人々。そんな中でイヌのフライクの存在が、何よりも美しく感ぜられてしまう。