ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

2021-01-14(Thu)

 記憶していた夢の一部。最近の夢にはわたしの見知らぬ人物が登場してくることも多いが、この夢もそんな夢。
 わたしはある(見知らぬ)男性と会話を交わしているが、夢の中ではわたしは彼のことをよく知っているようだ。彼はゲイでもある。彼がわたしに、「今、好きな人がいる」と言う。わたしはそのとき、「それがわたしだったらどうしよう」と思う。わたしには「ホモフォビア」はないと思っているので、その反応は軽く、「自分を相手に選ばれても困っちゃうな」ということぐらいの意味でしかなかったのだろうと思う。
 彼は「これがわたしの好きな人」と語り、それは夢のことだから、場面はワープして「彼が好きだという、その男の人」の姿になる。その男性は布団の中で眠っていて、20代の前半だろうか、若々しい印象を受けた。ちょっと長めのスポーツ刈りというようなヘアスタイルで、清潔感がある。わたしも「この人は美しい」と思うのだが、何よりも、その男性が寝ている布団のかたわらには、まだ1~2歳の幼児が添い寝しているのだった。「そうか、子どものある人を好きになったのか、それは難しいかもね」などとは思うわたしだった。そういう夢だ。

 先週、『地上から消えた動物』を読み終え、一昨日からはカーソン・マッカラーズの『心は孤独な狩人』の古い新潮文庫版を読んでいる。年末にも読もうと思っていたら本がどこに行ったかわからなくなっていたのだけれども、無事に発見されたのだ。
 最近この本は村上春樹の新訳で刊行され、「そのせいでこの本を読む人が増えるのはあまり歓迎しないな」とは思っていたのだけれども、そこまでに評判になっているようでもなく、内心ホッとしているところではある(言っちゃアレだけれども、わたしは村上春樹など大、大、大っ嫌いなのだ)。わたしは何も村上春樹とかに新しく翻訳してもらわなくても、そもそもの旧新潮文庫版(河野一郎訳)を再刊すればいいではないかとは思っていたのだけれども、読み始めてすぐに、今ではおおやけに使えないであろう「唖」、「二グロ」などの言葉が頻出するのを読み、「これは昔のままでの再刊はムリか」とは思った。
 この本はずいぶん昔、わたしが二十代前半の頃に読んだ本なわけで、もちろん今ではその内容の記憶はないのだが、読み進めているうちに、ある程度(一部)の結末を思い出すことができた。前にも書いたと思うが、一年前に読んだ本はその細部までまるで記憶から消えてしまっているのに、もう何十年も前に読んだ本のことは思い出せたりする。わたしには記憶障害があるとはいえ、おもしろいことだとは思う。

 今日は気温も上がって暖かいよ、という予報だ。昨日はセーターを2枚着込んだが、今日はセーター1枚。晴れていて気もちがいい。職場の人が「今日は3月の陽気らしいよ」という。ほんとうにリアルに3月が来るのが待ち遠しい気がする。
 今朝も始発電車で出勤したので仕事にも余裕があり、気分的にすごく楽だった。これからも、当分は始発電車を使おうかと思う。

 仕事を終えて帰路に着き、自宅駅からいつものコースを歩くのだが、このところ「野良ネコ通り」にすっかり、まったくネコたちの姿を見かけることもなくなってしまった。あの「ヒゲ殿下」や「殿」は今はどうしているのだろうか、どこへ行ってしまったのだろうかと思う。
 そのまま自宅近くまでさしかかり、公園のそばに来たとき、今まで出会ったことのないきれいな白ネコに出会った。初対面のネコの姿を見ると、なんだか心臓がドキドキする。近寄って写真を撮った。

     f:id:crosstalk:20210114123951j:plain:w500

 (帰宅したあとに撮った写真を見ると、このコは美しい「青」と「黄」の「オッド・アイ」の持ち主だった。わたしは「オッド・アイ」のネコを目にするのは初めてのことだったけれども、じっさいに出会っていたときにそのことに気づいていなかったのは残念だ)。
 まだまだ、このあたりにも人知れず「野良」たちが棲息しているのだろうと思う。追い詰められた環境の中で、ひそかに生き続けているのだろう。わたしの気もちとしては、何とかずっと生き延びてほしいものだとは思っている。「あのとき見かけたネコはもうすっかりその姿を見かけなくなってしまったな。やっぱりダメだったか」と思うことほど悲しいことはない。

 夕方になって、去年の年末に通販で注文してあったセーターがようやっと配送された。まあ中国製で、あまり期待はしていなかったのだけれども(最近はずっと、「中国製品」には痛い目にあっている)、とにかくはめっちゃ安かったし、包装を解いて着てみると、まあファッショナブルとはいえないけれども、充分に着れるではないかと思うのだった。これでこの冬も乗り切れるだろうか?

 昨夜のスカ首相の「記者会見」に関して、今日になってテレビでもネットでも問題視されている。わたしが注目したのは、スカ首相が「<国民皆保険制度>を見直すぜ!」と語ったことへの反応だが、この件に関しては今朝、加藤官房長官がフォローして、アレは「国民皆保険制度という根幹をしっかり守っていく」なかで、医療制度を検証していくという趣旨だったと説明したというのだった。
 しかしここには頭の悪いスカ首相がポロポロと、「隠しておかなければならないホンネ」をついつい漏らしてしまったのだろうと思う。「安倍前首相の政策を継承する」というスカ首相は、とうぜん安倍前首相がやった「年金の減額」ということはやろうとしているであろうし、今のスカ首相の腐ったブレーンである、パソナグループの会長である竹中平蔵という男が、「生活保護制度」というものを撤廃しようとしていることは周知の事実である。もちろんスカ首相だって「生活保護制度」を撤廃しようという考えではあろうし、つまりコレは何かというと、「国家、政府が税金で国民を救済する」という<福祉>の否定である。そう考えれば、「医療費を国家が負担する」という「国民皆保険制度」などサッサと撤廃してしまいたいと考えるのは、当然のことである。実はスカ首相が今ほんとうにやりたいのは、この「COVID-19禍」のドサクサにまぎれての「年金支給額の減額」であり、「国民健康保険制度の撤廃」であり、何よりも「生活保護制度をやめてしまおう」ということだ。
 わたしなどは表面的なスカ首相のアホさ加減、彼の「脳内パンデミック」をあきれるばかりで見逃しているのだけれども、スカ首相にだって「オレはコレをやりたい!」ということはあるのであって、それはつまり「貧乏人=低所得者」を救済する「福祉政策」などは放り投げて、ただ「金持ちだけが報われる金持ちのための国家」を達成したいのだ。スカ首相のことを単に「コイツ、首から上は<ミミズ>!」などと思っていると、実はミミズの執念というのはあまりにも危険なモノだったりするのである。このミミズは、早く<辞任>に追い込まないといけない。