ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『太陽がいっぱい』パトリシア・ハイスミス:著 青田勝:訳

太陽がいっぱい (河出文庫)

太陽がいっぱい (河出文庫)

 (今はわたしの読んだ角川文庫版は絶版のようで、Amazonからは、わたしが読んだものではない「河出文庫」の方で紹介)
 けっこう久しぶりに読むので、内容はほとんど忘れてしまっていた。映画の方はもう少し記憶していたが、それでも細部はもう記憶から飛んでいる。

 まず読んで思ったのは、トム・リップリーはかなり踏み込んで「同性愛者」に近接した人間とされていること。もちろんトム自身は「オレは同性愛者だ」などとは言わないが、ディッキーとのさいしょの「不和」のきっかけになった、トムがディッキーの服を着てその姿を鏡に映す場面では、その行為を見つけたディッキーははっきりと「ぼくは同性愛じゃない。きみはどう思っているか知らんがね」と言っている。それ以降トムは、ディッキーが自分と距離を取るのは、自分の中に同性愛的傾向を見ているからではないかと疑うことになる。
 それともうひとつ大きなファクターとして、ディッキーがトムの中に「育ちの悪さ」を見ていることもあるだろう。トムが自分が知り合った闇取引の連中をディッキーに会わせたとき、ディッキーは「あいつらはゴロつきだぜ!」と突っぱねる。
 じっさい、アメリカにいた頃のトムはそういう下層階級の連中との付き合いもあったようだし、そんな中で同性愛的傾向も育っていたのかもしれない(いや、これは下層階級へのわたしの偏見か)。トムがディッキーを殺害してローマに移動したときも、イタリア人の少年との「接触」ぶりがちょこっと書かれてもいた。

 そもそも、トムがディッキーを殺してしまうのは「もうディッキーとの関係はつづかないだろう」という絶望感からもあるのだが、トムがディッキーと付き合ったのは、自分がとても手の届かない<上層階級>の甘い香りをかげるからだったろうし、つまりトムはディッキーと親しくすることで、「いい暮しをしている人たち」の仲間みたいに見られるだろうということがあったろう。
 これは、ハイスミスがもっとあとに書いた『プードルの身代金』の中で、クラレンスという若い巡査が、飼っていた犬をさらわれた夫婦の暮らしぶりにあこがれ、必要以上に熱心に「犬をさらった犯人」を捜そうとした心理にも似ているだろうか。

 そういう風に言ってしまえば、<階級的格差>というのがこの作品の大きなバックボーンにはあるともいえる。そんな背景を、ハイスミスは単なる「ミステリー」としてではなく、トムの視点による「心理小説」としてみごとに仕上げている。前半はディッキーとの関係を見つめるトムの心理であり、後半になると、そういう心理的描写はディッキーのガールフレンドだったマージへの意識に強くみられるようになるだろう。

 まあ後半はディッキーの殺害、そのディッキーの友人だったフレディの殺害をいかに隠ぺいするかということ、警察や周囲の人たちにボロを出さないように細心の注意をこめて対応する姿が「読みどころ」でもあり、これは「犯罪心理小説」といえるのか。
 原題は「The Talented Mr. Ripley」=「才能あるリプリー君」なのだが、そこまでに彼に「犯罪隠ぺい」~「その後の立ち回り」に才能があったというわけでもなく、かなり偶然的な僥倖にも恵まれていたし、トム自身いつも「もうダメだ、もう逮捕されるだろう」とビクビクしていて、そのことがまた作品に深みを与えているだろうか。

 しかし、わたしはどうしても書いておきたいのだけれども、この小説には突然、登場人物が盲目になってしまうのだろうかというような超自然的「不可解」なことが何度も起こる。
 それは先日読んだナボコフの『絶望』の裏返しというか、『絶望』では主人公のゲルマンだけが、自分が殺した男のことを「オレにまるでそっくりだ」と思っていたわけだけれども、この『太陽がいっぱい』ではまず、とつぜんに主人公のトムと彼が殺したディッキーとは「まるで同一人物」のそっくりさんになってしまうのだ。
 トムはディッキーを殺したあと、自分自身がディッキーのふりをしていろんな人物と出会うのだけれども、そのときに特に「ディッキーに似せよう」と変装したりメイクをするわけではない(髪の色だけは染めて変えるのだが)。ディッキーに扮したトムはやはりさいしょっからトムの容貌なのだ。
 それで、ディッキーが行方不明になったことはイタリア中のニュースになり、新聞に(本物の)ディッキーの写真がいろいろと掲載されるのだが、そんな写真を見てもだれひとり、「これは最近わたしが会ったディッキーとは別人だ」とは思わないのだ。そして何よりも、ディッキーに扮したトムは、ディッキーのパスポートをそのまんま自分の(つまりトムの)パスポートとして使用するのである。コレは映画ではパスポートを偽造する印象深いシーンがあったのだけれども、原作はそういう小細工はやらない。トムの容貌は、ディッキーのパスポートの写真の人物として通用してしまうのである。
 そこまでにトムがディッキーに似ていたのであれば、もっと前に例えばディッキーの両親がトムに会ったときに「あんたはディッキーにそっくりだね」とか言いそうなものだし、そもそもディッキー自身が「おまえ、オレに似てるな」と気味悪がったことだろう。マージだってそう思っただろうし、そうするとその一点からトムの犯罪が露呈する可能性が強い。まあ小説だからそういうことは書かれないだろうけれども、読者は「どうなのよ?」という疑問を持つのである。

 不可思議現象第二弾。ディッキーになりきったトムは、ふたりのローマの警官に会って話をしているのだが、そのふたりの警官はそのあとになって、ふたたびトム本人に戻ってしまったトムと会うのである。そのときはさすがにトムも、トムとして警官にまた会うときにちょっとメイクをして、眼鏡までかけるのだが、警官ふたりは「あれ?このあいだ会ったディッキーは、今目の前にいるトムと<同一人物>じゃねえか?」とは、まったく気づかないのである。こんどは同じひとりの人間が、「まったく別人」と認識されるのである。これはやはり納得できないな~。いくら何でも無理がある。無理がありすぎる。この原作をそのまんま映画化したらどういうことになるか、想像したらわかるだろうが、そのあたりは原作を変えて映像化したルネ・クレマンの映画の勝利だろう(マット・ディモンが主演した映画ではどうなっていたんだろうか?)。

 せっかく「犯罪心理小説」として出色の作品だろうとは思うのだけれども、この「トム」~「ディッキー」の容貌の問題は解決がつかない気がする。残念だ。