ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『スモールg(ジー)の夜』(1995) パトリシア・ハイスミス:著 加地美知子:訳

(実はこの本、2021年10月にも読んでいて、わたしのことだから読んだ記憶はまるで残っていなかったのだけれども、この日この本の感想を書くにあたって、その2021年10月にこの日記に書いた文をかなり活かして書きました。)
 昨年末公開されたドキュメンタリー映画パトリシア・ハイスミスに恋して』でも、彼女がその死の前にあの『キャロル』以来となる、「同性愛の人々」を主題とした作品を書いたことが語られていたが、その作品がこの『スモールg(ジー)の夜』。
 結果としてこの作品はパトリシア・ハイスミスの遺作となり、彼女の亡くなった1995年にイギリスで出版された。その前に彼女の作品をいつも出版していた出版社は、この本の刊行を見合わせたらしい。日本では折しもこの時期の「ハイスミス・ブーム」に乗っかって、1996年という早い時期に翻訳が出ている(もう今は「絶版」だけれども)。

 原題は『Small g:Summer Idyll』で、『パトリシア・ハイスミスに恋して』でも語られていたことだが、ニューヨークのレズビアンのスポットが「バー・L」と隠れて呼ばれていたということで、この「L」とは「レズビアン」のこと。するとこの作品の原題の「Small g」とは「ゲイ」の「g」を意味するのだろう。
 もうひとつ、「Summer Idyll」の「Idyll」とは「牧歌・小物語詩・小抒情詩」などの意味があるようで、この作品がハイスミスらしくもなく、「不条理な暴力的展開」のないことを暗示しているだろう(まあ「皆無」ではないが)。というか、この作品はまるで「ミステリー」ではないだろう(それ故に、それまでハイスミス作品をずっと出版しつづけた出版社は、あえてこの作品を自社から出版しなかったのかもしれない)。

 この作品はスイス(パトリシア・ハイスミスが晩年を過ごした地である)のチューリヒにある「ヤーコプス」というビアホール/カフェ・バーと、一方の主人公のリッキーのアパート・仕事場アトリエを中心に進んで行くわけだけれども、その「ヤーコプス」が「スモールg」と呼ばれているわけだ。ここは週末の夜になるとゲイの人々が集まるスポットで、日本でいえば「新宿二丁目」なのかと思ったりするけれども、このバーは特に「発展場」として「相手を捜し求めるゲイら」の出入りする排他的なナンパスポットではなく、もっとひらかれたスポットというか、ゲイの人らもノン気(死語?)の人らも同じ場で、差別意識もなくその時を楽しむような、ステキなスポットのようだ(この、「差別意識を乗り越えよう」というのが、この作品のもうひとつのテーマでもある)。

 わたしが思うに、この作品の出版された1995年に白血病で亡くなったハイスミスは、この作品が「自分の最後の作品」になることを意識していたのではないかと思う。そう読むと、自身がレズビアンであったハイスミスのメッセージが読み取れるようにも思う。この作品には何人ものゲイ/レズビアンである人物が描かれ、そんな人物らが皆が「幸福」を求める、極めてポジティブな作品と読める。
 彼女のしばらく前の作品『孤独の街角』でも、登場人物が「ゲイ」であることがひとつのファクターになっていたけれども、それは「幸せな結末」に結びついたわけではなかった。
 この作品でも、自らの「レズビアン志向」を隠し、ホモフォビア(同性愛嫌悪)にはけ口をみて自滅する人物も出てくるが、中心になる「ゲイ」、そして「レズビアン」として生きようとしている人物は、「自らの幸せ」を見つけられるのかもしれない。ハイスミスが語るのは、「相手が男だろうが女だろうが、そんなことはどうでもいいのよ。ただ、相手をしっかり愛しなさい!」ということではないかと思えた。
 ハイスミス作品には珍しく(『キャロル』以来に)、女性同士のベッドシーンも描かれていて、その描写を含めてちょっとおどろいたのだけれども、これもハイスミスが「最後にきっちりと描いておきたかった」という意志の表れのようにも思った(そういうのでは、「葬儀」のディテールをしっかりと描いた場面、老いた女性を見て「老醜」ということに心をはせるような描写もあったし、ハイスミスの「これが最後」という気もちのあらわれのように思えた)。

 主な語り手というか、物語のほとんどの展開の視点でもあるリッキーという人物はゲイなのだけれども、読んでいると、このリッキーという人物が、ハイスミスのシリーズ作品の「トム・リプリーもの」のトム・リプリーのようにも読めてしまう。例えば『アメリカの友人』でのリプリーでは、自分が「犯罪」に引きずり込んでしまった男に憐憫の情を持ち、危険を厭わずに彼を助けるのだけれども、この『スモールg(ジー)の夜』でも、彼はもう一人の主人公でもあるルイーザの「解放」のために力を尽くすのだ。

 さてさて、実のところこの小説、わたしはこれはグリム童話の『ラプンツェル』の翻案だろうと読んだ。
 物語のメインは、レナーテという女性裁縫師(つまり、『ラプンツェル』の魔女)の下でまるで監禁されているかのような生活をする魅力的な女性、ルイーザを、いかにしてレナーテから解放してあげるか?というようなものなのだけれども、彼女を「救える」はずの最初の男が、まずはこの作品の冒頭で、夜の街頭で刺殺されてしまう(このことに背後関係はなく、単に突発的な事件だったようだが)。
 次にテディーという、まさに「王子様」のような、若くてハンサムでリッチな男がルイーザに惹かれる(同時に主人公のリッキーも、強く強く、このテディーに惹かれるのだが)。しかし、ルイーザを囲っているレナーテはテディーのルイーザへの接近を嫌い、レナーテの思いのままになる「家来」のような男に、夜中にテディーを襲わせるのだ(テディーは大ケガはするものの、命は救われている)。
 ルイーザは、リッキーらの協力を得て何度もレナーテのところから逃れようとするのだが、なかなかに果たせない。「それでは」と、リッキーはある計画を練るのだが(このとき、ルイーザはドルリーという魅力的な女性と知り合ってもいるのだが)。

 レナーテが「裁縫師」であり、その仕事場にはルイーザの他4人の下働きの裁縫従事者がいる。これは『ラプンツェル』物語というより、わたしが思い出したのは、レメディオス・バロの描いた『ラプンツェル』の作品である。
 そこには、高い塔に監禁されて「編み物」をする数人の女性がいて、そんな女性を監視するように、魔女っぽい人物の姿が描かれている。

     

 わたしの憶測では、ハイスミスはこの『スモールg(ジー)の夜』を書くにあたって、おそらく間違いなく、このレメディオス・バロの作品を観ていることと思う。わたしには、この『スモールg(ジー)の夜』のストーリーと、このバロの作品とはあまりに符合しすぎているように思えるのだ(このバロの作品は、のちにトマス・ピンチョンの『競売ナンバー49の叫び』でも重要なポイントを占めることになるが)。

 終盤に「網膜症なのよ!」と黒い眼帯をはめるレナーテは、もともと足が不自由なだけによけいに「魔女」っぽくなってしまうし、彼女に囚われているルイーザを助けようとする登場人物らの活躍は、なおさらに「おとぎ話」っぽくもなってしまうだろう。
 ついに解放されたルイーザは男性のテディーを選ぶのかも知れないし、女性のドルリーを選ぶのかも知れない。リッキーもまた、実はバイセクシュアルで妻帯者の男と、まさに堅固な関係を保ちつづけられるのかもしれない。

 ただ、読了してみて、全体の構成であまりにデティールにこだわりすぎている気がしたし、「主人公なの?」と思えたリッキーという男の「自意識」「気取り」が過剰ではないかと思えた(これは、ハイスミス自身の「自分が周囲よりも年上だ」という意識のあらわれ、なのかもしれない)。
 皆がハッピーになるかのようなこの結末、まさに「Idyll」というにふさわしいだろうか、とは思うのだったが。