ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『贋作』(1970) パトリシア・ハイスミス:著 上田公子:訳

 トム・リプリーシリーズの前作『太陽がいっぱい』からこの『贋作』までに、刊行には15年のブランクがあるけれども、内容的には『太陽がいっぱい』から6~7年あとのことのようで、そのあいだにトムは、エロイーズという富豪の娘と結婚をしていて、パリ近郊のヴィルペルスの豪邸でマダム・アネットという使用人も使って、悠々自適の生活を送っている。
 エロイーズという女性、トムに言わせれば「道徳(モラル)なんてないに等しい女」ということで、そりゃあトム・リプリーとおんなじではあるだろう。
 トムは『太陽がいっぱい』で手に入れることになったディッキー・グリーンリーフの遺産と、エロイーズの父親からの送金という「基本収入」のほかに、多少ヤバい仕事、事業にも手を出している。
 そんな中でもロンドンのバックマスター画廊からの収入が大きいのだが、これが実は、しばらく前に自殺したと思われるダーワットという画家を「まだ生きている」ことにして、バーナードという男がダーワットの作品の贋作を描いてバックマスター画廊で売りに出すというシステムで、このシステムがトムのアイディアだったのである。
 当時は無名だったダーワットだが、バックマスター画廊が売り込み始めてからはずいぶん知名度も上がり、「ダーワット」の名を冠した画材も売り出されるまでになったのだ。トムはダーワットの「贋作」の売り上げ、そして画材の売り上げからも歩合での収入があるというわけだ(こういうことをトムはエロイーズには話していないし、エロイーズはトムがディッキーを殺したことも聞いてはいないが、トムが「ヤバい」こともやっている、ぐらいのことは承知している)。

 さてそれで、バックマスター画廊からダーワットの作品を買ったアメリカのマーチソンという顧客が「わたしが買ったダーワット作品は『贋作』ではないか?」と言い始めることから、ストーリーが動き始める。市場には「ホンモノ」のダーワット作品、「贋作」のダーワット作品とがあるわけだ。
 「問題が大きくなる前に対処しなければならない」と、マーチソンがロンドンを訪れるのに合わせて、トム・リプリーがダーワットに変装して記者会見を行い、マーチソンの買った作品も「間違いなくわたしの作品だ」と語るという「大芝居」を打つことにする。
 これは『太陽がいっぱい』で、トムがあるときはディッキーに扮したということの再現でもあるだろう。

 記者会見が開かれ、マーチソンも自分が買った「贋作」持参で会見場に現れるのだが、「ダーワット氏は自分の描いた作品を記憶してないのではないか」という疑念から、やはり自分の持っているのは「贋作」だという疑念は捨てない。
 「もうワンプッシュだ」と思ったトムは、ホテルのロビーでマーチソンに「わたしもあの記者会見会場にいたのだ」と自己紹介し、「わたしも自宅に2点ほどダーワットの作品を持っている。その他にも絵画コレクションがあるので見に来られたら?」と招待したのだった。
 トムはそこでマーチソンの「贋作説」を覆せれば、とは考えていたのだが、マーチソンはそれを贋作だとする理由に使われた絵の具の色の問題を持ち出し、その考えを覆すのは困難だ。そのうちに観察力に優れたマーチソン氏は、「記者会見のときのダーワットの手はあなたの手にそっくりだ。あのダーワットはあなたが変装していたのだろう」と見抜いてしまう。
 そこで「これまで」と判断したトムは、マーチソン氏を地下のワインセラーでワイン瓶で殴り殺してしまうのだ(そのとき屋敷にはエロイーズも誰もいなかった)。
 トムはマーチソンの荷物を運んでオルリー空港のエントランスに置き去りにし、マーチソンの死体は屋敷近郊の林の中に埋めてしまう。

 さて、すぐにマーチソンが行方不明と騒がれるようになり、トムの屋敷にも警察が訪ねてくるようになる。
 この事件の展開と並行して、ずっとダーワットの贋作を描きつづけてきたバーナードがノイローゼ状態になり、いろいろとややっこしいことになる。
 トムはバックマスター画廊の仲間にも、バーナードにも「オレがマーチソンを殺した」と語り、読んでいて「えっ、そういうこと、言っちゃうんだ!」とは驚いたものだ。
 このあとトムの邸宅にバーナードがしばらく滞在し、トムは警察の追及もヤバくなってきたので、バーナードに手伝ってもらってマーチソンの死体を掘り出し、離れたところの橋の上から投げ捨てる。おそらく発見されることはないだろう。

 しかし、バーナードにとっては「贋作」以外にも「さらに犯罪に加担する」というのは過酷なことではなかったか。バーナードはトムを殴打し、マーチソンを埋めてあったところにトムを埋めてもしまうのだ(この作品の原題「Ripey Under Ground」はここから来ている)。意識を取り戻したトムは、何とか地上に這い出てくるのだが。

 このあとバーナードは行方不明になり、トムはバーナードの行方を捜してギリシャからオーストリアへと行くことになる。
 トムの考えでは「バーナードは自殺するんじゃないのか?」というのがあったようだが、わたしなんかは「あんな自分を殺そうとまでしたヤツ、勝手にすればいい!」と放置しておけばいいように思うし、バーナードに会ったことのあるエロイーズは「あの狂人!」と彼を嫌っている。
 このあたりのバーナードの追跡にかなりのページが費やされていて、ある意味では「この作品のキモ」ともいえるところではないかと思う。この、トムのバーナードへの「執着」をどう考えるか、そのことが問われてる気がする。

 『太陽がいっぱい』で、トム・リプリーはディッキー・グリーンリーフに同性愛的な感情を持って執着したわけだけれども、この『贋作』ではそうではなく、トムはバーナードの中に自分の分身、それも自分の中の「弱さ」を体現する存在に思えたのではないだろうか。
 この本の「解説」で、今ではハイスミス研究の第一人者でもある柿沼瑛子氏は、トム・リプリーにしてみれば「自由」=「犯罪」に負けて滅んでいく人間の「弱さ」は許しがたいもので、トムは犯罪によって自由を手に入れ、その自由を守るために戦いつづける人間だと書かれている。
 それは一面「正しい」意見だとは思う。しかし、トム・リプリーという人間はまさに「モラル」など持ち合わせないように「フッ」と人を殺したりしてしまうような人間だけれども、「人の心」の持ち合わせのないサイコパスのような人間ではない。こうやってバーナードのような男の行く末を見届けようとするようなところに、トム・リプリーという人物の、ひいてはパトリシア・ハイスミス作品の魅力があるのではないかと思う。そしてこの、バーナードという存在のニューロティックな性格こそ、まさにハイスミス作品の「現代性」というか、今に通じる魅力の大きなパートをしめるのではないだろうか。

 この作品で面白かったのは、トム・リプリーがエロイーズに「マーチソン殺し」を告白したとき、「やっぱりそうだったのね」との返答を聞き、エロイーズは自分がディッキーを殺したことを知っているのだと確信する場面で、この作品でエロイーズという存在はほとんど表には出てこないのだけれども、「いかにトムを支える重要な存在であるか」ということがわかり、わたしは一気にエロイーズのファンになってしまったのだった。次の『アメリカの友人』でのエロイーズにも期待したい。