土曜日だ。以前だったら「さて、どう動こうか」とか考えたところかもしれないが、今はただウチでおとなしくしている。
本を買いたいとは思った。例えば最近刊行されたリチャード・パワーズの『オーバーストーリー』とか読みたいと思い、となり駅の本屋に行って買おうかとも思ったりするのだが、やはり行かないでしまった。
今はカフカの全集を読んでいるわけだし、それを読み終えたら次に読みたい本も待ち受けている。そこに分厚いリチャード・パワーズの本を割り込ませるのはむずかしい。
本を読むのは時間がかかる。映画を観るように、その本を何かプレーヤーのようなものにセットして、わたしとしては「受動的」な立場で受け取れればいいと思う。もちろん、ネットにはそういう文学の「朗読」を集めたようなサイトもあるようだけれども、むむ、「朗読」されてしまうと、「そうか、ここではこういう漢字を使うわけか」というような、作家のニュアンスがわからない。もっとこう、ダイレクトに「脳」に直結するようなかたちで「読書」というものが出来ないものだろうかと、いつも思う。例えばプルーストの『失われた時を求めて』などにしても、「うわ~、長いな~!」と思いながらも、例えば映画でいえば最近の『サタンタンゴ』みたいに(わたしは観ていないが)8時間とか拘束されたり集中したりすれば読み終える、そういうシステムというかインターフェイスが生まれないだろうか(まあ無理だな)。
今は寝る前に柄谷行人の『トランスクリティーク』を読んでいるのだが、読んでいるとすぐにニェネントが「遊んでよ!」とやってくるわけだし、毎日毎日、昨日読んだことはだいたい忘れてしまっている。悲しいことである。そもそも、ニェネントのじゃまがなくっても、読んでいると自然と眠くなってしまって寝てしまう。今日も、11時頃から2時頃まで眠ってしまった。ある意味で「情けない」。
前にAmazonのマーケットプレイスで買った、平凡社の「世界名詩集大成」のフランス4の巻、この巻は今は他では読めないようなシュルレアリスム詩の翻訳が中心で、買ったときは「よく2000円ぐらいで売っていたな」と思ったのだが、今日何となくAmazonでみてみると、マーケットプレイスでも35000円の値がついていた。うん、そのくらいの価値のある本だろうとは思った。
いつも、この本(詩集)を読もうとするのだけれども、しょっぱなのピエール・ルヴェルディのところで立ち止まってしまい、先に進めない。ピエール・ルヴェルディ、自覚的なシュルレアリストではないのだけれども、あまりにわたしにフィットするのだ。
いつの日か、阻止された線よりはるかにとおく、ひとびとはゆく。地のはてへ。青とみどりの一角の、かくれた穹窿の方へまがっていくのは、かのきまぐれな道だ。ひとの背中で、さかさに着た仕立てのわるい服の奇蹟。あたまが三度お辞儀をする。とおくから膝が曲がり、手があがる。白い手袋のいろはあせ、木の葉ははなれる。風がとびたつ馬のように西空におそいかかる。泡にまみれて、夕暮れはくらくなる。声々がまえをはしり、岸にそってかなしい灯がともると、河は微笑する。鐘がしらせるべつの時間の上をすぎてゆく、一杯な時間。旅びとのあゆみはすでにはるか彼方をいそぐ。わたくし。わたくしはあいかわらず神が赦してくれるのをまっている。だが、ひとのうるさい指図におしつぶされて、じぶんの時をあがなうこともできないのだ。
「みじかい人生」 高村 智:訳
今日は、アンドリュー・V・マクラグレン監督の『マクリントック』という作品を観た。