ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『没後90年記念 岸田劉生展』@東京・東京ステーションギャラリー

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 岸田劉生は、近代日本美術史の中で特異な位置を占めていると思っていた。それは、「印象派」に耽溺することもなく、もっと時代をさかのぼった北欧フランドル美術への親和性にあるのではないかと思っていた。そのことが、この展覧会を観ようと思った理由でもあった。‥‥ところが、そんな予測/期待はすぐに裏切られた。
 しばらく前に坂本繁二郎の回顧展を観て、「この人は<写生>の人だ」と思ったのだったが、この岸田劉生もまた、<写生の人>である。目の前に見えるものしか描かない/描けない。しかも、(正直言って)相当に<下手>である。この人は、たいていのものを「概念」で観ている。そういう意味では<写生>以下のところがある。風景画で見られる木々の描写など、わたしの目には「アマチュア」レベルに見えるし、多くの「自画像」はすべて同じ方向からの同じ構図であり、画家の「自意識」以上のものが発見出来ない(造形的に作品を構築しようという気概が希薄だと思う)。
 彼がその生涯で「大きな作品」を描いていなかったということもちょっとした「驚き」で、せいぜい油絵の大きさでいえばF15号ぐらいの作品しか描いていない。まあ「大きさ」のことはその作家の評価に無関係だとはいえ、それで当時ある程度の評価を得、今でも「歴史に残る画家」とされることに驚きを感じる(だって、<下手>だし)。

 昔から、彼の作品を画集などで見ても、造形的にその「絵」の裏側がまるで描かれてはいないことは気になっていたのだけれども、こうやって彼の作品を連続して見ても、やはり彼は<物質の裏面>を描いてはいない。例えば彼の作品でいちばん有名な「切通しの風景」(じっさいのタイトルは「道路と土手と塀」というものらしい)にしても、その<切通し>の向こう側は<空っぽ>なのだ。壺を描いた静物画にしても、その「壺」には裏側がない。
 それはある面で<表象>だけの世界であるのだけれども、この奥に<イデア>が存在するのかどうかということは微妙だ。彼はその晩年には宋画に傾倒して<写生>から離れた作品も描き始めたところで早逝するが、面白いものではないと思った。

 ただ、国の重要文化財にもなっている「切通しの風景」だけは、あまりにも素晴らしい。おそらくこの時、岸田劉生の腕に<神>が降臨したのであろう。<偉大なるかな神よ!>と云うしかない。