今、韓国と日本との関係が悪化している。ひとつにこれは安倍政権の策略での「仮想敵国」を「これからは韓国にしよう」と定めた結果であり、先日の「あいちトリエンナーレ」の「表現の不自由展」展示公開中止の裏にも、今の日本の「嫌韓」が大きな影を投げかけている。先日はこの日本の対応に反撥した韓国が日本とのGSOMIA(軍事情報包括保護協定)を破棄すると決め、関係はさらに悪化し続けている。Twitterをみてそんな「嫌韓」な人たちのツィートを読むと、まるで理解できないというか、信じられない思いがする。彼らはたとえそれがどのようなパーソナリティの人であろうとも、その人が韓国出身だったり韓国人だったりするだけで「排除」しようとする。それは「現代人」の思考ではないとは思うのだが、世界的にみれば「移民」「難民」への排除思想は世界中に広まっている。まだ「移民」「難民」の少ない日本で*1、おそらくはそんな「世界的潮流」に対応したものとして「嫌韓」というものがあるのではないかと思う。
わたしは韓国や北朝鮮出身の人に親しい友人がいるわけではないが、知人は複数いる。彼ら、彼女らはもちろん「人間」としての魅力を持っているし、もっと親しくなりたいとも思っている。逆に、そんな人たちを排除しようとする「不寛容」な人たちとは、ぜったいに親しくなりたくはない。しかし、まだそんな人物にじっさいに出会ったことはないし、そういう人物というのは「ねつ造された」人物ではないのかと思ったりもする。
もう八月も終わりに近く、今日は八月最後の日曜日だ。昼前から我孫子のスーパーまで買い物に出かけるが、陽射しは強いけれどもそこまでに「暑い」という感じでもない。風が涼しい気がする。
我孫子への道の途中で、樹にとまって鳴いているセミを見た。もうそろそろ「ラスト・シンギング」だね、と思う。
他にもいるのかと目線を上に眺めていると、樹にへばりついた「空蝉」を見つけた。
スーパーでバナナを買い、くるみパン(その他)を買って帰宅。また音楽を聴きながら午睡して、夕方からテレビをみてすごした。
*1:その絶対数は少ないとはいえ、ヴェトナムや中国からの「移民労働者」への信じられないような「虐待」もあるようだし、「入国管理センター」でも、人を死に至らしめるような非人間的な対抗が続いているという。