ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『犬ヶ島』(2018) ウェス・アンダーソン:脚本・監督

 「ストップモーション・アニメーション映画」として、今月のはじめにテレビで放映されていた『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』と比べたくなるが、わたしは『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』をしっかりとマジメに観たわけではないので、わたしにはそういうちゃんとした比較はできないだろう。ただ、この『犬ヶ島』と『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』との双方が、「日本」を舞台にしているということは挙げられると思う。

 『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』は中世の日本を舞台として、魔法の三味線をあやつる主人公の少年が冒険の旅をするというものだったと思うが、いわゆる「説話」、「冒険譚」として正統な展開だったようには思う。

 この『犬ヶ島』、「プロローグ」において「少年侍と首無し先祖」という昔の(創作)伝説が語られる。猫を愛でた「小林王朝」は犬たちを攻撃、排除し、「ついに犬らも全滅か」というときに少年の侍があらわれて負け犬らの味方をし、小林王朝の頭(かしら)の首を切り落とし、犬たちを絶滅から救ったというのであった。絶滅を免れた犬たちであったが、結果として小林家に服従し、多くは「ペット」として生きながらえたということなのだ。『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』のように、創作の伝説を基にしているということも共通はしている。
 ここで物語は「今から20年後」の話になる。その「今」がいつの時代なのかわからないが、これはまちがいなく日本だろう。しかし見た感じでは「昭和」の時代のようにも見える(テレビは白黒のブラウン管テレビだし)。
 場所は「メガ崎市」という架空の都市で、そのとき犬が感染する「ドッグ病」が蔓延していた。市長は小林で、市内の犬たちをみんな「ごみ島」に隔離することを画策していて、まずは自分の養子であるアタリの飼い犬であり護衛犬であったスポッツを「ごみ島」に送り出す。以後も市内の犬たちはつぎつぎに島に隔離され、「ごみ島」は「犬ヶ島」となる(昭和30年代、40年代の日本では「狂犬病予防」のために予防注射していない犬はたとえ「飼い犬」であっても保健所に捕らえられ、殺処分されていたのは事実である)。
 アタリは「もういちどスポットに会いたい」と、単身飛行機で「犬ヶ島」へ行くのであった。
 つまり、プロローグの「少年侍と首無し先祖」をなぞるように話は展開して行くのだ。
 アタリ少年は犬ヶ島で出会った5匹の犬の助けを借り、スポットを探そうとするわけだが、小林市長の派遣した部隊やロボット犬の妨害を受ける。一方のメガ崎市にも動きがある。実はこの「ドッグ病」、犬を絶滅するために小林市長がバラまいていたのだ。

 一見「ディストピアSF」風でもあるし、ネガティヴな描写もグロい描写もある。「子どもといっしょに見たら楽しいだろうか」などと考えると、後悔することになるだろう。
 しかし作品全体が「小ネタ」の連続で、画面の細部にわたって「こんなものも出てくる」とかいうのもあるし、ウェス・アンダーソン映画らしい画面のつくり、構図も堪能できる。「ストップモーション・アニメ」として、誰もが好きになるのは「寿司の調理」の場面とかだろうし、わたしは終盤の「腎臓手術」の場面も好きだ。あと、犬たちが土ぼこりを巻き上げながら乱闘するというマンガっぽい場面とかで、巻き上がる土ぼこりがモゾモゾ動く「白い綿」で表現されるのが気に入った。
 ウェス・アンダーソン監督はこの作品を撮るにあたって、黒澤明宮崎駿らの影響を語り、YouTubeで見た来日時のインタビューでは、三船敏郎志村喬香川京子らの名前も語っていた。
 確かに「サムライ映画」の影響はあるだろうし、わたしは『どですかでん』のことも思い浮かべたし、「メガ崎市」など、随所に『千と千尋の神隠し』の湯屋みたいなところもあっただろう。だいたいこの「カタキ役」の小林市長とその執事とかの存在にはどこか「ヤクザ映画」っぽいところも感じられる。小林市長が政敵を毒殺し、インチキ選挙で圧倒的な支持を集めて再選されようとする場面など、まるっきし今げんざいのロシアのプーチンのやってることと同じで笑ってしまったが。

 ネットで読んだ範囲で、この作品への批判はいろいろとあるわけで、特に多い批判は、「日本人キャラクターが日本語をしゃべり、(海外では)英語字幕も付かなかった」ということにあるらしい。
 これは日本でこの作品を観て、「英語」に対しては「日本語字幕」が付くということが「あたりまえ」に思っているとわかりにくいことかもしれない。しかし、「それゆえに」か、ウェス・アンダーソン監督は日本語のセリフを短くし、非日本語圏の人が聴いても「なんとなくわかる」というところにとどめていると思う。これはもう一つの大きな批判、「アメリカから日本への交換留学生」のトレイシー・ウォーカーが「ホワイト・ウォッシング」ではないのかという批判ともつながるのだろう。この批判はわたしもわからないでもないけれども、けっきょく英語圏の観客のため、この「セリフの多い」役が英語をしゃべらなかったとしたら、興行的にも難しかったのだろうか。
 この映画全体が、そういう「非英語」を、どう英語圏に伝えるか、という問題もはらんでいるわけで、先のトレイシー・ウォーカーのことに合わせて、フランシス・マクドーマンドが声をやる「通訳ニュース記者」の存在をどう考えるか、ということでもあるだろう。。
 「犬たちがみ~んな英語をしゃべっているではないか」という「英語至上主義」については、そもそも本来、犬たちは「犬語」をしゃべっているわけで、「それをどうするか?」という問題なわけで、「じゃあどうするか?」ということになるだろう。少なくとも、この作品は「アメリカ映画」なのだ。

 もうひとつ、英語版Wikipediaに面白い記述が載っていて、それは去年亡くなられた日本の著名なミュージシャンの語られたことだというが、「I think it's a well-crafted movie. Its aesthetic is so perfect, I think. People could enjoy that. But as a Japanese, you know, to me, it's kind of the same thing again. Old Hollywood movies, they always used their mixed image of Japanese or Chinese or Korean or Vietnamese. It's a wrong stereotypical image of Asian people. So I cannot take it.(昔のハリウッド映画では、いつも日本人、中国人、韓国人、ベトナム人の混合イメージが使われていました。それはアジア人に対する間違ったステレオタイプのイメージです。だから私は受け入れられません)」と語られたという(英語版Wikipediaによる)。
 それならわたしは言うが、今のハリウッドでは日本人はあたかも「名誉白人」として、中国人や韓国人、ベトナム人とは差異化して、「白人」に近い容姿で描かれればいいとでもいうのか。日本人もアジア人なのだから、中国人、韓国人、ベトナム人らにも似ていると思われることもあるのだろう(わたしはそういうことはまるで思わなかったが)。ロシア人とイギリス人との見分けもつかないであちらの映画を観ているのが日本人ではないのか。わたしはこの作品で描かれる「日本人」は、特に戦中戦後、昭和時代の「日本人」像として納得の行くものだと思ったし、こういうところで普段「リベラル」なような顔をして、「日本人=名誉白人」のようなことを語る、実は反動的で心の底では保守派である(のではないかと思われる)人物こそ、排除されなければならないとは思ったりするのだ(もうこの方はこの世にいないからいいのだが、わたしの大っ嫌いな御仁ではあった)。

 あと、ラストのクレジットを見ていて、(どこで使われていたのかわからないけれども)1960年代のカルトバンド、「West Coast Pop Art Experimental Band」の曲が使われていたらしいのには驚いてしまった。ウェス・アンダーソン、やはりタダモノではないのだ。