ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

2024-03-12(Tue)

 この朝も夢をみていて、土曜日にみていた夢に似たところがあるということは記憶していたのだけれども、この日記を書こうとするときにはもう、思い出せなくなっていた。それでも、ひょっとした時にその夢のデティールの一部がフラッシュバックのように頭をよぎり、その夢をトータルに思い出せないことにイライラしてしまうのだった。

 昨日、「ふるさと公園」からの帰りに久しぶりにあの美猫に出会ったことを書いておこう。わたしは勝手に、このネコに「ノラ・ミャオ」という名まえをつけていたのだった。2月に出会ってから一ヶ月ぶりの出会いだが、元気そうでよかった。相変わらず美しいね。

     

 かつてはネコたちがいっぱいいた「野良ネコ通り」も、今ではもうネコに出会うこともすっかりなくなり、今、外でネコに出会うとしたら、この駅の近くの公園のあたりで出会う、この「ノラ・ミャオ」か、もう一匹のサビネコの「サビーネ」のどちらかばかりになってしまった。
 今の日本では「町に野良ネコがいっぱいいるとイイね」などとは言えないのだけれども、散歩をしていて野鳥の姿を見ると心がなごむように、野良ネコの姿にもまた心が安らぐのはたしかなことだ。町中にネコがいて、人々といっしょに生活しているイスタンブールの街の映像などを見ると、「いいなあ」と思ってしまうのはしょうがない。

 昨日、『君たちはどう生きるか』と『ゴジラ-1.0』がアメリカのアカデミー賞を受賞したこと、特に『ゴジラ-1.0』の「視覚効果賞」の受賞というのは、ひと晩経ってもやはりうれしかった。
 わたしもガキの頃には東宝の特撮映画が大好きだったし、そういう円谷英二からの「特撮」の精神が、今回の『ゴジラ-1.0』にもつながっていると思っていた。
 映画の特撮の世界はいつしかコンピューター処理の「VFX」や「CG」の世界になり、ハリウッドの独壇場の世界になってしまった感がある。もちろん『ゴジラ-1.0』だって「VFX」なのだが、ハリウッドに比べて相当に低予算であったこととか、シンパシーをおぼえるところは大きい。

 先日テレビで見た、アメリカ製のストップモーション・アニメの『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』という作品など、「ストップモーション・アニメ」の良さはどこにあるのか、ということを理解していない製作者による、ただ金をかけただけのいかにもハリウッド的な作品だったわけで、そこではシュヴァンクマイエルクエイ兄弟のやって来たことは「無」にされてしまう。それが「ハリウッド」というシステムのやることなのだ。

 「特撮」という世界においても、ハリウッドはかつて自分たちの「祖」であった、レイ・ハリーハウゼンウィリス・オブライエンの精神を忘れてしまっているというか、むしろ捨てようとしているのだ。
 わたしはちゃんと観ていないけれども、今のハリウッドというのは、「こんな世界が現実にあったら怖い」という表現から「こういう<ありえない世界>」を描くという、「ファンタジー」のジャンルにシフトしているのだと思える。それは近年のハリウッドのキングコングゴジラの映画を観て感じたこと。
 それを、『ゴジラ-1.0』という作品は、本来の「恐怖」を描くために「特撮」を使っていたのだと思う(今書いていてちょっと思ったのだが、そういう精神は、一時期世界に影響を与えた「和製ホラー」に通じるところもあるように思った)。
 このことはもうちょっと考えてみたいけれども。

 それでこの日、「Amazon Prime Video」でプライム会員が観ることのできる作品をチェックしていたら、新しく無料視聴できる作品が一気に増加したようで、「困ったなあ」という感じである。ジャン・コクトーの作品群、エミール・クストリッツァ作品やウェス・アンダーソンの『犬ヶ島』など、観たい作品があれこれとある。もうしばらくは「Amazon Prime Video」を観るのもやめようかと思っていただけに、困ってしまうのである。
 この日はアンソニー・マンジェームズ・スチュアートのコンビの作品、『雷鳴の湾』というのを観た。これは「西部劇」ではなかったが、これまでの西部劇でせっかく「屈折した主人公像」というのを追及してきたこのコンビ、ちょっと「みんな善人、めでたしめでたしハッピーエンド」という作品になってしまっていた感じ。映画としての面白さはあったが、ちょっと残念だった。

 夜はテレビでは、『オッペンハイマー』がアカデミー賞をあれこれ受賞したことからだろう、クリストファー・ノーラン監督の特集番組をやっていたが、わたしはクリストファー・ノーランの映画、そんなにしっかりと全部観ているわけではないけれども、『ダンケルク』以外の作品はみ~んな絵が汚くって、まったく観る気にならない監督なのだ。
 こういう、観る気がしない監督といえば、最近ではドゥニ・ヴィルヌーヴ監督も同じ(この監督の作品の絵の汚さも、相当なものだ)。この二人の監督の作品は観たいとは思わないのだ。わたしの「ハリウッド嫌い」の後押しをする二人。
 もちろん、「絵の汚さ」というのは撮影監督、照明らの仕事という面もあるけれども、そういうことをトータルに仕切ることのできない監督というのは支持できないのだ。