ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『ジョセフ・コーネル コラージュ&モンタージュ』@佐倉・DIC川村記念美術館

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 ジョセフ・コーネルはわたしの大好きな造形作家のひとりである。今となっては恥ずかしくもあることだが、わたしは彼の影響を受けて「ボックス・アート」を数多く造っていた時期もあったのだ。しかし、考えてみたら単品でコーネルの作品を観たことはあっただろうけれども、こうやって「コーネル展」としてまとめて彼の作品を観るのは、今回が初めてのことになると思う(記憶が消えているときにそういう展覧会があって、観ていたりして)。
 今回の展示でうれしかったのは、コーネルのいわゆる「箱作品」だけでなく、彼のコラージュ、そして映像作品、そして手紙や日記なども展示されていたこと。それらをまとめて観ることで、今まで「箱作品」でしか知らなかった、コーネルの作家としての「全体像」とまではいかなくても、その多様性(いやむしろ「単一性」というべきか)を知ることができたと思う。そして、思いがけず彼にシュルレアリストらとの交流があったということも知り、そのことも彼の作品を考える礎にもなった。つまり、わたしはジョセフ・コーネルのことはその「箱作品」だけで解釈し、それ以外のことはほとんど知らなかったのだ。

 例えば今回初めて知り、初めて観る彼のコラージュ作品。コーネルはマックス・エルンストのコラージュから影響を受けてコラージュをつくり始めたらしいけれども、コーネルのコラージュ作品はエルンストなどの「同一平面上に異質な世界を同居させる」というもの(これは日本の岡上淑子さんのコラージュ作品にもあてはまる)ではなく、観た感じそれは「コーネルにとっての<あってしかるべき世界>の具現化」ではないのかという感想を持ち、そこには「異質な世界の衝突」というスペクタクル性はなく、それは実におだやかな世界ではないかと思える。
 そう思ってみると、コーネルの「箱作品」も皆、やはり「あってしかるべき」静謐な世界にみえるのだった。コーネルには障害を持ち外に出られない弟がいて、その弟に「世界」を見せるために「箱作品」をつくっていたのだ、という話は聞いていたが、(その話の真偽は別として)「ありうべき世界」としての作品だった、ということは納得するものがある。

 もうひとつ、今回の展覧会で特筆すべきは、コーネルの映像作品のおそらくはほぼすべての作品を観ることが出来るということ。わたしは上映されていた作品のすべてを通して観たわけではないけれども、けっこう多くの作品を観た。
 そんな中でまず注目するのは、おそらくはコーネルがさいしょにつくった作品「Rose Hobart」。これは1936年の作品だけれども、当時人気のあったローズ・ホバートという女優さんの、映画の中での彼女の出演シーンだけを編集したもの。こういうのは今なら映像を録画して編集するのもたやすいことだから、どこかで女優を偏愛する方々がひそかにやられていることかもしれないけれども、この1936年という時代だと、まずはフィルムを入手して、それを切り貼り編集する技術をもっていないと出来ない。コーネルさん(もう、「さん」付け)は「この世界」から、その「ローズ・ホバート」の見られる世界を切り取って、パーソナルにフィルムを残すのだ。これは彼の「箱作品」とどこかで共通するアプローチだろうか(彼の<女性観>についてはわかったような顔をして書きたいこともあるのだけれども、すっごく長くなることもあり、やめておく)。
 それと注目したのはもう一作、「泉の伝説(A Legend for Fountains)」という作品。この作品ではこれ以外の多くの作品での「街角にカメラを置いてのスナップショット」ということを越えて、<演出>をしているということで注目に値する。撮影のために女の子に<役>を与え、その女の子の窓越しの姿を捉え、街の風景と合わせて編集している。ここに、ニューヨークという街から出ることもなかったというコーネルの、その<世界観>をも読み取れるように思った。そしてこのフィルムは<パーソナル・フィルム>と<映画>との、まさに真ん中に位置していて、今でもなお、「個人にとっての<映画>とは何か?」ということの解答を読み取れるような思いもするのだった。「必見」、と言っておきたい。

 その他コーネルの手紙、日記のこととか合わせて書きたいこともいろいろあるけれども、まだ出来ていない図録が出来て、それを読んでからのことにしようかと思う。