ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『君たちはどう生きるか』(2023)宮崎駿:脚本・監督

  

 わたしは当初、この作品のことはその内容もわからなかったし、ただタイトルから『風立ちぬ』みたいな作品かと思っていて、「それなら観なくってもいいや」というつもりだったのだが、実はこの作品が海外で公開されるときのタイトルが「The Boy and The Heron」なのだということを知り、「Heron?」ってな感じで急に興味を持ち、海外向けのトレイラーなどを観たうえで、「やっぱり面白そうだ、観に行こうか」となったものである。

 さて、観た結果、これは言ってみれば「ファンタジー・アドヴェンチャー」ということになるのだろうか。ちょっとばかりトレイラーに騙された気もするが(いや、詐欺師のアオサギに騙されたのか)。

 戦時中。主人公の少年、眞人は火災で母のヒサコを失う。眞人の父はヒサコにイメージの似たナツコと再婚し、ナツコの出産も控えてナツコの実家へと一家で疎開する。父親は軍需工場を経営しているようで、家にはあまり父の姿はない。
 ナツコの実家は敷地の広大な、塔のある大きな洋館で、ナツコは屋敷に仕える6~7人のばあやに守られている。
 眞人は屋敷の部屋を外からアオサギがのぞき込むのに気づき、そのアオサギを追って外に出ると、アオサギに「あなたの助けを待っていますぞ」と語りかけられる。アオサギが消えた塔の中へと追おうとする眞人だったが、そのときはばあやらに止められる。
 ある日眞人はナツコが敷地の森の中へと入って行くのを目にするが、そのままナツコは行方不明になる。眞人はばあやのひとりのキリコと共に、ナツコを探して森へと行く。あらわれたアオサギについて塔に足を踏み入れた二人は、塔に閉じ込められてしまうのだった。
 ここから眞人とキリコとの不可思議な世界への冒険が始まる。
 このあとはあまりにいろんなことが起きるので、ストーリーを追っていくのはおしまい。

 この世界に出てくる連中は皆、二重性というか二面性を持っていて、眞人に「別の姿」をあらわし、その本質(人格?)もガラリと変わってしまう。この世界の案内人でもあるようなアオサギにしても、その顔の下からは小太りのオヤジが姿をあらわし、その名の通り彼の語ることは「詐欺師」っぽく、信用がならない。
 眞人は塔の中で海の中に落下してしまうが、そこで彼を救うのは若い姿になった漁師のキリコである。その世界には母ヒサコの生まれ変わりのような、火を使う少女ヒミもいるし、ナツコにめぐり合うにはさまざまな困難が待ちかまえている。また、その背後には明治維新の頃にこの屋敷をつくり、こつ然と姿を消してしまった大叔父の存在があるようだ。
 さらにそこは、多数のペリカンたちやインコたちなども存在する世界だ。

 以上は簡略化して書いたので、じっさいにはもっともっと、いろいろとややっこしいわけではある。

 さて、わたしは観ていて、こういう物語構造というのは、18世紀のヨーロッパの「ロマン主義」作品に似ているのではないかと思うのだった。それは単に物語だけでなく、登場する屋敷の「塔」や背景になる風景なども、まさにドイツロマン派絵画のカスパー・ダヴィッド・フリードリヒを思わせられもしたのだった。
 また、終盤に「大叔父」が登場して「世界の構造」のようなものを提示するというのも、そういう精神性の奥には「ロマン主義」の反映もあるのではないかと思った(ここはちょっと、クリストファー・ノーランっぽくもあった気がしたが)。
 細かく見ていけば、眞人がアオサギを追っていくということは当然『不思議の国のアリス』の白ウサギを追って「別世界」へ入ってしまうアリスのことを思い浮かべるし、さらにその『不思議の国のアリス』と同時代の『水の子どもたち』との親和性もあるだろうと思う。

 ただ正直言えば、この作品、あまりに細部(デティール)の集積、という印象が強すぎ、作品トータルとしての訴えるものに弱かった思いがするし、展開でとっちらかってしまっている印象もある。まずはこの作品のままでは大叔父は「ファシズム」の支柱的存在とも捉えられ、まあ最終的に彼の世界は崩壊したようだとはいえ、大叔父の存在を否定するモティーフは弱いのではないか、とは思った。

 いやそれでもこの作品は、「一度観るだけではすまされない」というアート作品の条件を備えており、今どき珍しいともいえる、作者の「作家主義」というような作品の属性を備えたいたとも思え、観客に「何度も観返すこと」を則するような、稀有な作品なのではないかと思うようになった。やはりもう一度観たい。
 久石譲の音楽は、とっても良かったが。