ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『炎上』(1958) 三島由紀夫「金閣寺」:原作 市川崑:監督

 この映画に関しては、Wikipediaの『炎上』のページの「製作の経緯」が、ちょっとしたドキュメントとしてとっても面白い(映画本編よりも面白いぐらいだ)。

 それでやはり映画を観て印象に残るのは市川雷蔵の演技で、それは「私はこの作品を契機として俳優市川雷蔵を大成させる一つの跳躍台としたかった」という決意の実現ではあっただろうけれども、「自然体」を感じさせるその演技は、このような「文芸映画」では新鮮なものと感じられた。
 特にそのことは、仲代達也と対峙するシーンに如実に表れていて、いわゆる「演劇人」的に大上段に構えた演技をみせる仲代に対して、まさに対照的に飄々と見える演技で対抗していたと思う。ここでの市川雷蔵の演技は言ってみれば「映画人」としての演技で、舞台での演技ではなく「カメラに撮影されることで成り立つ演技」というものをみせてくれている。それはこの映画の始まりからずっと無言で通していた彼が、持参した米をこぼされてついに、「馬鹿!米がもったいないじゃないか!」と声を荒げるときの、「破裂」と言うのがふさわしいような、感情の爆発を伴った叫びにも表れていたと思う。
 そしてやはり、(Wikipediaにも触れられているけれども)夜の京都・新京極をひとり彼が歩くシーンがいい。こういう、ストーリーを展開させるためではないシーンが活かされている映画はいいものだ。

 もうひとつ、この映画でしっかり観ておきたいのが、宮川一夫の撮影だろう。この人の撮るモノクロ映画の白と黒、明と暗との対比というのは、もう映画本編から離れてフィルムだけを見ていてもすばらしいわけで、この映画では「日本美」の象徴ともいえる古寺を撮ってもいるわけだから、もう「無敵」であろう。

 ただ、わたしにはこの映画が「名作」と言うには、ためらわせられるものがある。どうも観ていても、これが人間の内面の「翳り」を問うシリアスな映画なのか、ひとりの若い男が古寺に火を放つまでを描いた「ミステリー」なのか、どっちつかずに感じられるところがある。
 もちろんわたしは三島由紀夫の原作を読んではいないから、この映画を「原作の映画化」ということで理解できるわけではないのだけれども、どうも市川崑の演出には不要にドラマティックに走ろうとするところがあるように思えるし、「何かが過剰」なのではないかと思ったりする。
 わたしはそんなに市川崑監督の作品を観ていないので、口はばったいことを言ってはいけないのだけれども、そんな市川崑監督の作品を観て、いつもそこまでにインスパイアされないというか、感銘を受けるには至らないところがあるのは確か。だからどちらかというと市川崑監督作品を観るのは避けることになる。
 今回は市川雷蔵の「俳優魂」と、宮川一夫の美しい撮影を見ることができたからよかった、とは言えるけれども。