ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『AMMO-NITE GIG TOKIO vol.2 カセキユウコ スカンク』@四谷三丁目・呼応

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 カセキユウコさんは、長くベルリンを拠点に活動されているダンサー(舞踏家)で、今はしばらく日本に帰国されて小さな公演を続けておられる。
 実はわたしは20年以上前に東欧を旅行した時、ベルリンでカセキさんのスタジオを訪れたことがあるのだと、同じ日程で東欧を廻られていたKさんに知らしめられたのだった。わたしは記憶障害でもって、特にこの東欧旅行の記憶はほぼすべて消えてしまっているのでだけれども、Kさんの話ではそのとき、カセキさんのスタジオには塩田千春さんもいたのだという。
 ま、そういう<思い出せないこと>は置いておいても、カセキさんのダンスは観たいと思っていた。

 この日のパフォーマンスは、そういう彼女のダンスを思いっきり見せてくれたり、スカンクの音楽を堪能させてくれるようなものではなかったけれども、冒頭しばらくのカセキさんの舞踏的な動きから、「やはり魅力的な舞踏家/ダンサーなのだろう」ということは充分に想像できるものだった。彼女の公演があればまた観たいものだと思った。
 

2019-09-06(Fri)

 ついに晴れた! 久々の青空。

 またこの日記を書くのをさぼってしまったので、簡略に書かせていただきます。今日は夜になって四谷三丁目のスポットでの、カセキユウコさんとスカンクとのパフォーマンス公演。6時半開場、7時開演に間に合うように家を出たつもりだったけれども、大手町駅で千代田線から丸ノ内線に乗り換えるのに延々と歩き、さらに、大手町から四谷三丁目までなんてすぐだろうと思っていたのが、コレが銀座の方をぐるりと回って四谷方面に行くので、予想よりもはるかに時間がかかってしまった。それで「食事をしてから行こう」というのは中止して、コンビニでおにぎりを買って食べながら場所を探した(初めて行く場所なのだ)。
 「この道かな?」という裏道を歩いて行くと、タバコを喫っている人たちがたむろしている(もちろん、灰皿が置いてあったのだ)のが目に入り、「あそこではないかな?」と見当をつけて近づいてみると、声をかけられた。スカンク氏だった。

 この初めてのスポットで受け付けをやっていたのが、わたしがいちばんさいしょに「crosstalk」をやったときに出演してもらったダンスユニットの人物で、ちょっと驚いた。
 スペースはまさに「倉庫の中」のような雰囲気で、スカンク氏に「crosstalk」みたいでしょと言われたのだけれども、そう、スカンク氏もまた、数少ない「crosstalk」を実際に知っている人物で、この夜のパフォーマンスもまた、いかにも「crosstalk」でもやっていたようなパフォーマンスではあった。ちょっとタイムスリップをしたような感覚。

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 終演後、いろんな人と話をしてもよかったのだけれども、スカンク氏とちょっと話をしただけで帰って来てしまった。それでも帰宅したら11時を過ぎていたけれども。
 

2019-09-05(Thu)

 ずっと、雨が降りそうで降らないような、そんな天候がつづいている。涼しくなるようなならないような。季節の変わり目というのはこういう感じなのだろうか。

 注文してあったニェネントくんの「固形食(カリカリ)」が届いた。前から買っていたモノと包装の袋はまるで同じで、ただ内容量だけが違う。開けてみて「えええっ!違うじゃないか」ということもあり得ないだろうから、OKである。これからはもうネット通販でだけ買おう。
 そろそろネコ缶の方も残り少なくなっていて、買わなければならないのだけれども、こればかりはAmazonでも安くはなく、やはり我孫子の駅の向こう側のドラッグストアに買いに行かなければならないだろう(破格に安いのだ)。「ネコ缶」というのはニェネントの好みが如実に出る食べ物で、むやみやたらに銘柄を変えたりするとまるで食べてくれなくなったりする。だから、「こっちの方が安いから」などと変更はできないし、「こっちが健康に良さそう」というのも、ニェネントにお伺いを立ててみないと味の好みがある。まあ今のネコ缶はネットで検索してもネコ缶としての評判もいいし、価格も安いから買いつづける。

 こないだ、仕事の帰りに駅のそばの農家直営の小さなスーパーに寄り、賞味期限が迫っていて半額になっていた「イカの塩辛」を買ったのだが、これがすっごく美味しい。
 市販されている「イカの塩辛」というのはどれもいろいろな添加物がまざっていて、本来の「イカの塩辛」の味覚からは程遠いモノばかりなのだけれども、これは純粋な味がして旨かった。
 むかしはしばらくのあいだ、ずっと「イカの塩辛」なんか自分でつくっていたのだけれども、今はイカの不漁でイカの価格がむかしの何倍にもなってしまい、お手軽に「自家製」ということが出来なくなってしまった。もちろん「自家製」の塩辛がいちばん美味しかったのだが、こうやって美味な、(多分)まぜもののない「イカの塩辛」に出会うと、やはりうれしくなってしまうのだった。

 夜、キッチンの窓の外に、またヤモリがへばりついていた。キッチンの灯りに引き寄せられて飛んでくる虫たちを、そこで待ち伏せてパクリパクリと食べているのだ。
 みていると、しっぽの根元の両側に楕円形の卵みたいなのがくっついている。「これって卵なんだろうか?」と調べてみたのだが、どうやらヤモリというのはトカゲ類だから、危機的状況に遭うとしっぽを切り捨てて逃げるらしいのだが、この卵状のかたまりは、切り捨てたしっぽの「再生」に関係しているらしい。

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 ついでに「ヤモリの寿命」を調べてみたら、なんと10年ぐらいの寿命があるらしい。わたしは「冬は越せない短命の動物」なのかと思っていたけれども、ちゃんと寒くなると「冬眠」するのだった。
 はたして、このわたしの友だちのヤモリは、今何歳ぐらいになるのだろうか? そして、あと何年ぐらいわたしといっしょにいてくれるのだろうか?(わたしの方が先にくたばるということは大いにあり得る。)
 

2019-09-04(Wed)

 また信じられないようなニュースを読んで驚愕した。東京オリンピック組織委員会は、会期中に会場への<旭日旗>の持ち込みを禁止しないという方針を示したという。これは韓国から「オリンピックで<旭日旗>の持ち込みは禁止すべき」という要請を受けてのことらしいが、アンビリーヴァブル! 今の時期、何が何でも韓国に敵対したいのが今の安倍政権だから、この五輪組織委員会の決定も政権からの要請を受けてのことだろうとは容易に想像がつく。
 しかし、前にサッカーのワールドカップFIFAは<旭日旗>の会場への持ち込みを禁止していたはずだが。どうなっているのか。
 しかも五輪組織委員会旭日旗について「日本で広く使われているので政治宣伝ではない」と説明している。いったいどこで「広く使われている」というのか。右翼の街宣カーのボディとか、靖国神社に参拝するアナクロなミリオタが持っていたり、ヘイトスピーチする連中が振り回しているのを写真で見たことがあるくらいで(右翼の街宣カーはじっさいに見たことはあるが)、まさか「広く使われている」とはいえないだろうし、すべてが<政治宣伝>で使用されているではないか。
 そもそも、オリンピックとは「世界平和の祭典」であるはずのところ、主催国自体が「国威発揚」の場にしてしまおうというのはどういうことか。まさに1940年のヒトラー政権化のベルリンオリンピックの再現だ。日本は何という情けない国になってしまったのだろう。とにかくは、来年のオリンピックの会場で<旭日旗>が振り回されるような光景は見たくない。

 以上のようなことはこの日記にあんまり書きたくはないのだけれども、自分が生きていく上で大きな影響を与えられる事柄なので、書かざるを得ない。

 それで今日は先週エアチェックしてあった「ウィークエンド サンシャイン」を聴いていたのだけれども、その中でPeggy Leeの「Is that all there is?」が流されているのを、ずいぶんと久しぶりに聴いた。
 この曲があのロック全盛期の1969年にかなりのヒットをしたというのもちょっとした驚きだけれども、これまであまり曲の内容を知らずに聴いていたのを、ピーター・バラカン氏の解説で知ることが出来た。「へえ、そういう歌詞だったのか」と検索してみたら、面白かった。

 まず、語り手(歌い手)は幼い頃に家が火事で全焼してしまう。「自分の全世界が燃えてしまう」のをパジャマ姿で見ているのだけれども、「なんだ、この程度のモノなの?」って思ってしまう。
 12歳のとき、お父さんにサーカスに連れてってもらう。ピエロだとか「踊るクマ」だとか美しく着飾った女性たちとか、そりゃあすっごいんだけれども、けっきょく、「なんだ、この程度のモノなのか」と思ってしまう。
 もっと大きくなって、すっごくカッコいい男の子と恋をするんだけれども、彼はわたしを捨てて消えて行ってしまった。死にたい思いをしたけれども、けっきょく死んだりしなかった。「なんだ、恋なんてこの程度のモノか」って思ったわけ。
 みんな、その程度のモノよ、わたしの友だちさん、このまま踊り続けましょ。

 みたいな内容。面白い。きっとわたしはすべてが終わって死んじゃうとき、「なんだ、その程度のモノだったのか?」って思い返すんじゃないかな?って思う。別にわたしの今までの<生>が平板なつまらないものだったということではなく(そういう意味では、以前自分のやって来たことを人に話したとき、「ずいぶんと<波瀾万丈>だったわけだね」とは言われたことがある)、けっきょく「Is that all there is?」みたいなものなんだろう。
 でもそれは自分だけが思うことではなくて、例えば「何も考えることもなく、ただ人の示す道に従って生きるような人」でも、そのさいごのときに、けっきょく「Is that all there is?」ってつぶやくのかもしれない。つまり、どんな人だって、すべてが終わるというときに過去を振り返って、「Is that all there is?」って思うんじゃないだろうか。
 じゃあ「最後の言葉」が誰もがおんなじ「5 words」なのだったとしたら、すべての人は「死」を前にしてまったく同じになってしまうのだろうか? 考えてしまった。

 今はしかとした答えが解ったわけでもないけれども、「Is that all there is?」の5つの単語の、「that」の内容がそれぞれの人でまるで異なるのだ。わたしはその「that」の幅を求めて生活しているのではないのかな?とは思うのだった。それでそのラストのとき、「All there is」がどれだけのものになるか、きっと、その「All」の大きさが欲しいのだ。
 

『審判』フランツ・カフカ:著 原田義人・渡邊格司・石中象治:訳(旧版「カフカ全集 2」より)

審判 (岩波文庫)

審判 (岩波文庫)

(上に紹介した「岩波文庫」版は、わたしが読んだものではありませんが)

 銀行の業務主任のヨーゼフ・Kはその三十歳の誕生日の朝、なぜかわからぬままに出勤前の早朝に自室でとつぜんに逮捕される。しかし彼はそれで拘留されるわけでもなく、それ以後もそのままの日常生活(仕事)を継続し、その中で裁判所事務局や弁護人、法廷画家などさまざまな人物との折衝をつづけて行く。結末はちゃんとあって、ヨーゼフ・Kの三十一歳の誕生日の日、彼はふたりの処刑人に古い石切り場に連行され、そこで刺殺される。

「まるで犬だ!」と、彼は言ったが、恥辱が生き残ってゆくように思われた。

 というのが、この小説の最後の行になる。しかしこの小説はやはり「未完成」で、その「逮捕」から「処刑」までのちょうど一年間に、カフカは無限に(といっても、365日分だけれども)エピソードを詰め込むことが出来たのである。こういう、「ぜったいに<未完成>にならざるを得ない」作品を書いてしまうということがまた、「カフカ」という不思議な存在の特性のひとつ、なのだろうとは思う。
 もちろんそういう意味でこの未完の作品は『城』に似ているともいえるのだけれども、「いやいや、まるでちがうではないか」ともいえるだろう。奇妙な、どこまでも面倒くさい登場人物たち、そしてまるで「性(さが)」のように女性にアプローチしてしまう主人公など、『城』を思い出させられることも多いのだけれども、描かれる世界はまるで異なる印象がある。

 『城』は、いわばメタフィジカルな「迷路」という大きな主題を感じたのだけれども、この『審判』のキーワードは「異次元」と言っていいのだろうか(陳腐な言い方だ)?
 この小説には、無数の「扉」が登場する。それは主人公のヨーゼフ・Kがよく知っている建物の、よく知っている廊下の両側に並んでいる「扉」だったり、Kのまるで知らない建物の中の「扉」だったりするのだけれども、Kがその扉を開けると、そこにはKのまるで知ることのなかった世界があり、そこで見知らぬ人物と邂逅することになる。そしてその扉を閉めて中に入ると、きっと誰かしらが「扉」の外で「盗み聴き」しているのである。これはほとんど「シュルレアリスム」の世界であり、ここにカフカという作家の大きな魅力も感じることになる。
 ひとつ、この作品でのカフカの描写は「限りなく<リアリズム>」と言ってもいいだろう描写で、どうでもいいような細部まで実に細やかに書き込まれている。しかし、彼の描く「扉」を越えてその中に入ってしまうと、そこには「外」の世界とはとんでもない乖離のある世界になる。わたしは、この『審判』という小説の面白さはまさにココにあり、この小説には「教訓」を読み取るとか、そんな通俗的な読み方を拒絶しているという意味で、どこまでもいつまでも<現代的>な小説なのではないかと思っている。ある意味、現代の「小説」はここから始まっているのだ、とも。
 

2019-09-03(Tue)

 ずいぶん前にニェネントの下あごが皮膚炎みたいになり、症状をネットで調べたら「猫ニキビ」というものか、などと納得し、「まあ大丈夫でしょう」とそのまま治ることを期待していたのだけれども、昨夜ニェネントを抱き寄せて見てみると、その下あごの毛が抜けてまだらになっていて、前に見た「猫ニキビ」の症状より悪化していると思った。
 これはまた「動物クリニック」に行った方がいいだろうなと思い、考えてニェネントを外に連れ出してまた知らない人たちに会わせるのはストレスをためるばかりになるだろうと思い、「写真」で患部を撮影して診てもらえば済むのではないかと、ニェネントを連れないで駅の向こうの「動物病院」に行ってみた。
 ま、写真を見ていただいて「こういうことですね」という診断はいただいたのだけれども、病院の先生の話では、ほんとうは当人(?)をじっさいに診察しないで処方するのは禁止されているらしい。でも前にいちどこのクリニックにはニェネントを連れて行ってるし、ニェネントの<人間嫌い>もご存知のこと。「ストレスを与えてもいけませんしね」と事情を察して下さり、塗り薬を処方していただいた。ありがとうございました。これをしばらくやってみて、改善されなければ次は「通院」ですよ!ニェネントくん!

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 しかし、動物くんのお薬は高価だ。こんなの人間さまだったらオロナイン軟膏ぐらいのものじゃないかと思ったりするけれども、その何倍もの費用がかかる。どうか長引かないで治癒してほしいものである。

 9月になって、いろいろな秋のイヴェント公演の詳細も発表になり、チケットも売り出された。今日は「Festival/Tokyo」のプログラムをいろいろとみて、「コレとコレは観たい」と二つ決めて、申し込みをした。けっきょく、今月はもうちょっと貯金を殖やせるかと思っていたのだけれども、「多少ね」というところに落ち着きそうだ。ほんとうはもう1公演選ぶと「3公演セット割引」とかあるのだけれども、そういうスーパーマーケット的なサーヴィスには乗せられない(あとになって「やはりコレも観たい!」ということにはなるかもしれないが)。
 

2019-09-02(Mon)

 月曜日でまた仕事が始まる。ついに、早朝に家を出るときには、外は深夜と同じように真っ暗になってしまった。この日は曇っているせいもあるけれども、東の空をみてもこれっぽっちも明るさは見られない。
 家を出たところで、そばの道の真ん中に座り込んでいたニャールの姿がみえた。すぐにわたしに気づいて、さっさかと逃げて行ってしまったが。
 仕事の帰り、ウチの近くで、花にとまって蜜を吸うアゲハチョウを見た。近寄っても逃げないので写真を撮った。

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 今の日本はロクなニュースがなく、自然に心がギスギスとし、ダメージを受けている。本を読んだり展覧会を観たり、舞台や映画を観て音楽を聴くのもいいし、先日Mさんと飲んだように、話の通じる気のおけない人と飲むのもいいけれども、こうやって自分の身近なところの動物や植物に眼を留めることも、大きな「癒し」になると思っている。

 仕事の休憩時間と電車の中とで、読んでいたカフカの『審判』を読み終えた。帰宅してちょっとWikipediaで『審判』を検索して読んでみると、主人公のヨーゼフ・Kの仕事を「銀行の支配人」と書いてあった。これはもちろん、大きな間違いで、「支配人」のような地位にあれば、あのような展開の小説になるわけもない。Wikipediaのこの項を執筆した人物は、どんな読み方をしていたというのか。作品をちょっと読みなおせばヨーゼフ・Kの地位はしっかりと書かれていて、彼は銀行の「業務主任」である。それで、彼の周囲の「支店長代理」が彼の「足かせ」になったりするのである。
 自分でWikipediaを編集して訂正しておこうかと思ったが、またログインIDやパスワードを設定しなければならないようなので、煩わしいのでやめた(ツィッターで、「誰か訂正しといてね!」と書いておいたが)。

 昨日知った「中島敦展」の講演会のチケットを買い、ついでに「今入手可能な中島敦の本にはどのようなものがあるんだろう?」とAmazon検索してみたら、つい十年ほど前に「ちくま文庫」で三巻の文庫版全集が出ていて、もちろん今でも入手可能だった。古本でもそんなに安くなってはいなかったが、三千円ぐらいで中島敦の「全集」が買えると知ると、また猛烈に欲しくなってしまうのだった(文庫サイズなら手軽に読めるし)。買ってしまって、今読んでいる『白衣の女』を読み終えたら次は「中島敦」ということにしようか。