それで今日は先週エアチェックしてあった「ウィークエンド サンシャイン」を聴いていたのだけれども、その中でPeggy Leeの「Is that all there is?」が流されているのを、ずいぶんと久しぶりに聴いた。
この曲があのロック全盛期の1969年にかなりのヒットをしたというのもちょっとした驚きだけれども、これまであまり曲の内容を知らずに聴いていたのを、ピーター・バラカン氏の解説で知ることが出来た。「へえ、そういう歌詞だったのか」と検索してみたら、面白かった。
みたいな内容。面白い。きっとわたしはすべてが終わって死んじゃうとき、「なんだ、その程度のモノだったのか?」って思い返すんじゃないかな?って思う。別にわたしの今までの<生>が平板なつまらないものだったということではなく(そういう意味では、以前自分のやって来たことを人に話したとき、「ずいぶんと<波瀾万丈>だったわけだね」とは言われたことがある)、けっきょく「Is that all there is?」みたいなものなんだろう。
でもそれは自分だけが思うことではなくて、例えば「何も考えることもなく、ただ人の示す道に従って生きるような人」でも、そのさいごのときに、けっきょく「Is that all there is?」ってつぶやくのかもしれない。つまり、どんな人だって、すべてが終わるというときに過去を振り返って、「Is that all there is?」って思うんじゃないだろうか。
じゃあ「最後の言葉」が誰もがおんなじ「5 words」なのだったとしたら、すべての人は「死」を前にしてまったく同じになってしまうのだろうか? 考えてしまった。
今はしかとした答えが解ったわけでもないけれども、「Is that all there is?」の5つの単語の、「that」の内容がそれぞれの人でまるで異なるのだ。わたしはその「that」の幅を求めて生活しているのではないのかな?とは思うのだった。それでそのラストのとき、「All there is」がどれだけのものになるか、きっと、その「All」の大きさが欲しいのだ。