ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

2019-09-04(Wed)

 また信じられないようなニュースを読んで驚愕した。東京オリンピック組織委員会は、会期中に会場への<旭日旗>の持ち込みを禁止しないという方針を示したという。これは韓国から「オリンピックで<旭日旗>の持ち込みは禁止すべき」という要請を受けてのことらしいが、アンビリーヴァブル! 今の時期、何が何でも韓国に敵対したいのが今の安倍政権だから、この五輪組織委員会の決定も政権からの要請を受けてのことだろうとは容易に想像がつく。
 しかし、前にサッカーのワールドカップFIFAは<旭日旗>の会場への持ち込みを禁止していたはずだが。どうなっているのか。
 しかも五輪組織委員会旭日旗について「日本で広く使われているので政治宣伝ではない」と説明している。いったいどこで「広く使われている」というのか。右翼の街宣カーのボディとか、靖国神社に参拝するアナクロなミリオタが持っていたり、ヘイトスピーチする連中が振り回しているのを写真で見たことがあるくらいで(右翼の街宣カーはじっさいに見たことはあるが)、まさか「広く使われている」とはいえないだろうし、すべてが<政治宣伝>で使用されているではないか。
 そもそも、オリンピックとは「世界平和の祭典」であるはずのところ、主催国自体が「国威発揚」の場にしてしまおうというのはどういうことか。まさに1940年のヒトラー政権化のベルリンオリンピックの再現だ。日本は何という情けない国になってしまったのだろう。とにかくは、来年のオリンピックの会場で<旭日旗>が振り回されるような光景は見たくない。

 以上のようなことはこの日記にあんまり書きたくはないのだけれども、自分が生きていく上で大きな影響を与えられる事柄なので、書かざるを得ない。

 それで今日は先週エアチェックしてあった「ウィークエンド サンシャイン」を聴いていたのだけれども、その中でPeggy Leeの「Is that all there is?」が流されているのを、ずいぶんと久しぶりに聴いた。
 この曲があのロック全盛期の1969年にかなりのヒットをしたというのもちょっとした驚きだけれども、これまであまり曲の内容を知らずに聴いていたのを、ピーター・バラカン氏の解説で知ることが出来た。「へえ、そういう歌詞だったのか」と検索してみたら、面白かった。

 まず、語り手(歌い手)は幼い頃に家が火事で全焼してしまう。「自分の全世界が燃えてしまう」のをパジャマ姿で見ているのだけれども、「なんだ、この程度のモノなの?」って思ってしまう。
 12歳のとき、お父さんにサーカスに連れてってもらう。ピエロだとか「踊るクマ」だとか美しく着飾った女性たちとか、そりゃあすっごいんだけれども、けっきょく、「なんだ、この程度のモノなのか」と思ってしまう。
 もっと大きくなって、すっごくカッコいい男の子と恋をするんだけれども、彼はわたしを捨てて消えて行ってしまった。死にたい思いをしたけれども、けっきょく死んだりしなかった。「なんだ、恋なんてこの程度のモノか」って思ったわけ。
 みんな、その程度のモノよ、わたしの友だちさん、このまま踊り続けましょ。

 みたいな内容。面白い。きっとわたしはすべてが終わって死んじゃうとき、「なんだ、その程度のモノだったのか?」って思い返すんじゃないかな?って思う。別にわたしの今までの<生>が平板なつまらないものだったということではなく(そういう意味では、以前自分のやって来たことを人に話したとき、「ずいぶんと<波瀾万丈>だったわけだね」とは言われたことがある)、けっきょく「Is that all there is?」みたいなものなんだろう。
 でもそれは自分だけが思うことではなくて、例えば「何も考えることもなく、ただ人の示す道に従って生きるような人」でも、そのさいごのときに、けっきょく「Is that all there is?」ってつぶやくのかもしれない。つまり、どんな人だって、すべてが終わるというときに過去を振り返って、「Is that all there is?」って思うんじゃないだろうか。
 じゃあ「最後の言葉」が誰もがおんなじ「5 words」なのだったとしたら、すべての人は「死」を前にしてまったく同じになってしまうのだろうか? 考えてしまった。

 今はしかとした答えが解ったわけでもないけれども、「Is that all there is?」の5つの単語の、「that」の内容がそれぞれの人でまるで異なるのだ。わたしはその「that」の幅を求めて生活しているのではないのかな?とは思うのだった。それでそのラストのとき、「All there is」がどれだけのものになるか、きっと、その「All」の大きさが欲しいのだ。