原題は「Alien 2」ではなく、「Aliens」。
『エイリアン』(1979)が大ヒットしたにもかかわらず、期待された続篇はなかなか作られることがなかった。ひとつには製作の20世紀フォックスで何度も経営陣の交代もあり、続篇への熱意が薄れていたことだし、前作の製作の3人は20世紀フォックスを「利益の未払い」として告訴してもいたのだ。
そのあいだに『エイリアン』の監督リドリー・スコットはワーナー・ブラザースで1982年に『ブレードランナー』を撮り、さらにその名声を高めていた。
ようやく続篇製作が決定し、製作チームは監督に『ターミネーター』をヒットさせたジェームズ・キャメロンを推し、キャメロンは自分で書いた脚本を製作陣に提出し、監督は彼に決定した。
シガニー・ウィーバーの「リプリー」続投も決まり、主なキャストも決定し、1985年の9月に撮影は始まったらしいが、現場ではそれまでのキャリアの乏しい監督の強引なやり方とスタッフ・キャスト間で、深刻な衝突も起きたという。
完成した映画は1986年の7月に公開され、大ヒットを記録して批評的にも好評を博したという。シガニー・ウィーバーはこの映画の演技でアカデミー賞の主演女優賞の候補となり、それは「SF映画」の出演者には異例のことだったという。
さて、わたしはあまりジェームズ・キャメロン監督の作品を観ていないのだが、数少ないわたしの観たキャメロンの監督映画で、気に入った作品は今までひとっつもなかった。『タイタニック』など、個人的には今でも「あんな映画がなんで高評価を受けているのか、まるでわからない」でいる(あくまでも、「個人の感想」です)。
それは、この『エイリアン2』でも同じことだった。
今回は海兵隊員らとリプリーとが数多くのエイリアンと戦い、まさに「今度は戦争だ」という内容なのだが、前半ではその海兵隊員らはあまりにマッチョで、頭脳まで筋肉で出来ているようにアホっぽくって呆れたのだった。女性隊員まで隊の中でマッチョ化し、そんな中で自然とリプリーもそんな「マチズモ」の中に同化して行くのだ。
これはまるで前作『エイリアン』でのシガニー・ウィーバーの活躍が「フェミニズム」っぽくもあると解釈し、そんな前作の「フェミニズム」的空気を打ち消すのに躍起になっていたように思えてしまう。
ましてやこの作品では「ラスボス」的存在はエイリアンの「女王」なわけでもあって、もうムキになって映画の中から「女性的なるもの」を抹殺してしまおうとしているように見える。
シガニー・ウィーバーが「生き残り」の少女を助けて守るところに、彼女の「母性」をあらわしているのかもしれないが、この「少女」、何度も何度もまさに「耳をつんざくような」ハイトーン・ヴォイスで叫びまくり、いやでも「もういいかげんにしてくれよ」と、思わせられるのだった。
後半の、ドラマ的要素もほとんど吹っ飛んでしまっての「エイリアンとの戦い」は、サスペンスとして面白いものではあったが、わたしにはやはり、あまりにマイナス要素の強すぎる映画ではあった。
やはりこれからも、ジェームズ・キャメロンの監督した映画は観ないでおこう、とは強く思うのであった。