ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』(2001) 金子修介:監督

 「ミレニアムシリーズ」が開始されても、観客動員数は「平成ゴジラシリーズ」からは大きく落ち込んでいた。またも東宝は、シリーズを前作『ゴジラ×メガギラス G消滅作戦』でもって終了させようという予定もあったという。
 しかし、すでに大映の「平成ガメラシリーズ」の高評価で名をはせていた金子修介監督が、「ゴジラシリーズ」への意欲を見せており、次作ゴジラ映画の監督に内定していた。
 すでにシノプシスも仕上がっていたが、東宝側は営業上の理由から過去に人気のあったモスラ及びキングギドラを登場させることを求め、そこで「東宝怪獣映画」の総決算、有終の美を飾り、「これでゴジラ映画はおしまい」としようという意向ではあったらしい。

 「ミレニアムシリーズ」の例によって、今回も第一作『ゴジラ』(1954)よりあとのゴジラ映画はなかったことにされ、モスラにせよキングギドラにせよ「初登場」扱いなのだ(モスラの故郷のインファント島も二人の「小美人」も登場しない)。
 今回もやはり「パラレル・ワールド」設定として、日本では「平和憲法」が施行されていて「自衛隊」は保持せず「日米安保条約」もないようだ。しかし冒頭の米軍の原潜事故では、「日米平和条約」なるものにもとづいて(「自衛隊」の代わりの)「防衛軍」なるものが出動するのである。な~んや、まったく欺瞞じゃないか。これはのちの「ゴジラの日本本土襲撃」にアメリカ軍が出動しないことの「言いわけ」的設定に過ぎないな、とは思うし、そもそも「防衛軍」って「自衛隊」とどう違うのか? よっぽど「自衛隊」よりも軍隊っぽいし(これを「防衛軍」としたことで、この映画への自衛隊の協力は得られなかったらしい)。

 そんなことがわたしにとってのこの映画への「つまづき」の始まりで、まず第一に、この映画での「ゴジラ」という存在は「太平洋戦争で命を失った兵士らの怨念」の象徴なのだと語られるわけだ。

 そんな設定、許されるのか?
 「太平洋戦争で亡くなられた兵士」は「英霊」とも呼ばれ祀られてもいるのだけれども、(今ここでは「国に殉じた英霊」が靖国神社に祀られているのだ、などということには触れなくとも)そんな亡くなられた人々の気もちを「怨念」として「ゴジラ」という怪獣に委託させていいものだろうか?

 このことはさらに、今回ゴジラと対することになるバラゴン、モスラ、ギドラなどの怪獣が「護国聖獣伝記」という古文書に書かれた、国を守るための「護国聖獣」とされるとき、では「亡くなられた戦士の怨念」は国を守るためには排除しなければならないのか?ということになってしまう。
 この映画では「言いわけ」的に、その古文書に書かれた「国」とは「国家」ではないなどと語っていることから、脚本を書いた人は「戦没者」が「国」と敵対するという問題に無自覚ではなかったわけだろう。

 さらにさらに、映画ではこの先で「世界のあらゆる戦争、戦災の被害者を背負った存在」などと語られる。
 つまりここで、ゴジラが背負っているのは「死せる兵士」だけでなく、「東京大空襲の犠牲者」、「広島、長崎の原爆の犠牲者」の怨念でもあると言っているのだ(もっと拡げていえば、ヨーロッパ戦線で亡くなられた人々、局所的にいえば「アウシュヴィッツの犠牲者」もまた、ゴジラの背負う「怨念」ということになっている)。

 そんな、どう考えても戦争に突き進んだ「日本」という国の犠牲者であった人々が「ゴジラ」の姿を取り、それが「国を守るための護国聖獣」に倒されなくってはならない、などというのは《どういうこと?》なのか。
 もしもこの映画での「ゴジラ」が、そのような「戦争の犠牲者」の魂を背負っているのであれば、そんな存在に「追悼」の意志ぐらいは見せてみろよ!とは思うのである。そのあたり、わたしはこの作品は「あまりに意識が低すぎる」と思う(かんたんにいえば、「あまりに<Non-political>ではないのか)。
 こんなことは書きたくないが、そういうコンセプトはつまり、「公害の被害者」を怪獣に仕立ててしまうことにもつながるのではないのか、とも思ってしまう。

 そんなことから、わたしはこの映画を見続けることが大変に不愉快になったことは書いておきたい。いったい今まで、この映画をそのようなことから批判した人はいなかったのだろうか? それとも、このようなわたしの見方はどこかで歪んでしまっているのだろうか? 誰か教えていただきたいものだ。