ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『まわり道』(1975) ペーター・ハントケ:脚本 ヴィム・ヴェンダース:監督

 映画の導入部で、川沿いの町をとらえる空撮撮影が素晴らしい。川はエルベ川で、町は主人公の住むという設定のグリュックシュタットという町らしい。
 冒頭、作家志望の主人公はトロッグスのレコードを聴きながら、拳で窓のガラスを殴りつけて割る。置いてあるレコードのいちばん手前にはキンクスのファーストアルバムがあり、相変わらず(というか、この頃から)ヴェンダースキンクスが好きなんだなあと思う(関係ないが、主人公のヴィルヘルムを演じるリュディガー・フォーグラーは、アニマルズのエリック・バードンに似ている気がした)。
 ガラスの割れた音を聞きつけてか主人公の母親がやって来て、「旅に出なさい」と言う。「店を売って、そのお金の半分をあげるから」と。これは、「もうあなたは自立しなさい」ということでもあるだろう。「自分を追いつめなさい。作家になろうと思ったら、ゆううつと不安感は失わない方がいい」などと語るが、印象として、「なんてモノのわかったお母さんだろう」とも思ってしまう。

 そしてこのとき、母親は旅立つ主人公に2冊の本を与える。フローベールの『感情教育』と、アイヒェンドルフの『のらくら者日記』である。
 わたしはどちらも読んだことはないのだが、どちらも主人公が旅をしていろいろな人と出会うというストーリーのようだ。
 この映画はゲーテの「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」を下敷きにしているということだけれども、この作品の主人公は演劇人を目指すものの、成果を上げられずに挫折するというストーリーのようで、たしかにこの『まわり道』に重なるようだけれども、主人公が旅に出て人々と出会って行くという展開は、先の2冊から借用したものではないかと思われる。

 主人公はボンへと列車で出発するが、映画の中でいっしょに旅をするのは女優のテレーズ(ハンナ・シグラ)、ハーモニカを吹いて物乞いして歩くラエルテス(ハンス・クリスチャン・ブレヒ)、その孫娘で祖父を手伝って大道芸をやるミニョン(ナスターシャ・キンスキー)、詩人を志すというベルンハルト・ランダウ(ペーター・カーン)の4人だが、彼らが立ち寄った屋敷の主人の男もまた、「旅の道連れ」と言えるのかもしれない(彼は自殺してしまうが)。

 映画のほとんどは、主人公と登場人物らとの会話(対話)で成り立っているが、その対話に「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」からの引用はなく、つまりはペーター・ハントケの「創作」ということだ。そうするとちょっと、『ベルリン・天使の詩』での人々のモノローグにつながるところもあるのだろうか。ただしかし、この作品では人々が「心を通い合わせる」という展開はない。主人公はテレーズとの交際を望むし、テレーズも主人公を避けるわけではないのだけれども、つまりは「うまく行かない」。主人公は元ナチだったラエルテスには嫌悪感を持つし、ミニョンは象徴的にも「口がきけない」のである。ベルンハルト・ランダウも去って行くし、さいごに主人公はテレーズともミニョンとも別れ、一人でドイツの南のツークシュピッツェ山へ行き、「つまりは一人で気ままに生きたかったのだ」と回顧するが、「僕は無意味なまわり道ばかりしているようだ」という言葉で映画は終わる。

 邦題は『まわり道』となっているが、原題の「Falsche Bewegung」とは「間違った動き」とでもいう意味で、英語タイトルは「The Wrong Move」である。
 つまり、何も生み出すことのなかった「空振り」の旅を描いた作品だと言ってもいいのだろうけれども、逆に「何も生産的な成果を生み出さなかった旅」の記録がゆえの「面白さ」というか、「興味深さ」があると思う。「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」もまた、その前半は特に主人公の「挫折」の描写がつづいていたらしいけれども、映画として、その「ネガティヴさ」の中に意味があり、そこにペーター・ハントケの脚本の価値があるように思えたし、それを映画として撮ったヴィム・ヴェンダースもまた、「よくやったな」というところはあったと思う。
 特に、主人公と同行人らが川を臨む山道を歩きながら会話を交わす、長い長い長回しの繰り返される場面の、まさに互いに「食い違う」という場面の特異さ。

 撮影はやはりロビー・ミューラーで、特にこの作品での撮影は見事で、美しいものがあったと思う。夜のシーンで思いっきり暗い画面で、もうほとんど何も見えないだろうという撮影も印象に残った。