ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『間諜最後の日』(1936) アルフレッド・ヒッチコック:監督

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 原題はまさに「Secret Agent」。ヒッチコックとしては引きつづいて「スパイもの」映画で、サマセット・モームの『アシェンデン』という連作短編集の中の2篇をアレンジしたもの。どうもこの時期、ヒッチコックはこういう「スパイもの」というか「国際陰謀」を描く作品に夢中になっていたようで、この次の『サボタージュ』もまたしかり。
 ただこの作品、前作の『三十九夜』のけっこうシリアスな演出を捨て、かなりコミカルな演出ぶりが目につく。それは端的に主人公のスパイであるアシェンデンをサポートする、「将軍」と呼ばれることになるペーター・ローレの、その奇怪な演技によるところが大きいだろう。

 「奇怪」といえば、この脚本も奇怪なシロモノで、まさかサマセット・モームの原作はこのようなものではなかっただろう(脚本は、『恐喝(ゆすり)』『暗殺者の家』『三十九夜』と同じくチャールズ・ベネットだが)。
 物語は1916年のこと。ロンドンではブローディという兵士で小説家であった男の葬儀が行われていたが、その棺は「空っぽ」だった。そのとき帰国したブローディ(ジョン・ギールグッド)は自分の死亡記事が新聞に出ているのに驚き、"R"と呼ばれる男に会う。"R"はブローディに「スパイ」としての任務と、「アシェンデン」という新しい名前を与える。彼の任務はジュネーブへ飛び、敵国ドイツのスパイを暴いてその男が中東へ飛ぶことを阻止するのである。偽装のためにジュネーブにはエルザという女スパイ(マデリーン・キャロル)が「アシェンデンの妻」として先に派遣されている。現地では「ハゲのメキシコ人」「将軍」と呼ばれる国籍不明の男(ペーター・ローレ)がアシェンデンをサポートする。
 アシェンデンがジュネーブのリザーヴしたホテルへ行くと、エルザは「あなたを待ちくたびれた」と、マーヴィン(ロバート・ヤング)という同じホテルの男と部屋で仲良くしているのだった。

 エルザは部屋で待機して、アシェンデンと「将軍」が外に出て諜報活動をする。さいしょはドイツから寝返った男と会って情報を得ることだったが、その男に会いに行くとすでに男は殺されていた。殺された男は手に服のボタンをにぎっていた。そのボタンの持ち主が犯人だろうと、アシェンデンと「将軍」は該当者を探す。カジノで「そのボタンはわたしのものかも」というケイパーという男と出会い、アシェンデンらはケイパーを登山に誘い出すことに成功する。
 山の上でケイパーを突き落として殺害するつもりが、アシェンデンにはそういう「殺し」は出来ないと見た「将軍」はアシェンデンを帰し、自分一人でケイパーを突き落とす(その様子を、ホテルの窓から望遠鏡でアシェンデンが確認していた)。

 直後に暗号の連絡が入り、「君たちは勘違いしている。ケイパーはスパイではない」という。ケイパーに会ってもいたエルザはその知らせにショックを受けるが、自分はアシェンデンのことを愛していると告げる。
 スパイ活動をやり直し、地元のチョコレート工場がドイツのスパイの「情報交換所」であることを突き止めた二人だが‥‥。

 ここまでで言っておきたいのだが、アシェンデンらは何ひとつ、まともなスパイ活動をしおおせていたとは思えない。指令で会うはずだったドイツから寝返った男に会いに行くと、もうその男は殺されていたし、ボタンからその犯人~スパイを突き止めることにも失敗して、無実の男を殺害している。いつの間にか「チョコレート工場」がスパイの情報基地だとわかるが、そのことを捜索する過程の描写もないので、「いきなり発見した」という感じであった。
 それに、いちいちペーター・ローレのやたら眼を剝くような「悪ふざけ」じみた演技に興味をそがれ、真面目に見る気分もなくなってしまう。第一、まったくのミスで無関係な人を殺害してしまったというのに、エルザ以外の二人はそのことに後悔の気もちも見せることはない。
 終盤にようやくスパイの正体がわかるが、それも「スパイ活動のおかげ」でわかった、という感じでもない。

 このあと、中東へ列車で移動するスパイを止めようとアシェンデンと「将軍」は列車に乗り込むのだが、もう「スパイ」を辞めたいと思っていたエルザは、列車で旅立つというマーヴィンに「いっしょに連れて行ってくれ」と、同じ列車に乗り込む。実は「スパイ」とはマーヴィンだったのだ。
 「列車の中での追跡」というのはヒッチコックもお得意の演出だから、若干面白くはなる。しかし最終的にはアシェンデンらの活動に関係なく、アシェンデンらが何も出来ないうちに、"R"からの指令で「この列車にスパイが乗っている」と、列車は空爆されるのである。列車は派手に爆破されて脱線し、瞬間、それまでの展開にない「スペクタクル」になってしまう。
 結末を書いてしまうと、破壊された列車の下敷きになったマーヴィンは命尽きるが、その前に「将軍」を射殺するのだった。生還したアシェンデンとエルザは、それから共に生きることを誓い、"R"に「スパイ」は辞めるとの連絡を入れて、どこかへ旅立つのだった。

 しかし、「スパイ」というのはそんなに簡単に「はい、辞めます」と辞められるものなのか? 彼らは外に漏らしてはならない「国家機密」をいろいろ知っているのではないのか? そもそも「アシェンデン」の身分証明、パスポートは諜報機関から支給されたもので、彼のリアルネーム、ブローディという人物はすでに亡くなったことになっている。「アシェンデン」としての社会生活は困難そうだし、そもそも"R"は二人を抹殺すべく、「殺し屋」を派遣するのではないだろうか?

 だいたいそもそも、そこまでに優れた「スパイ活動」を為したわけでもないアシェンデン、何がイヤでスパイを辞めようと考えるのか?(エルザが「辞めたい」というのはわかるが)
 「スパイ」としての成果をまるであげることが出来なかったからなのか、山でケイパーを自分の手で殺さなかったから、「自分にはスパイは無理だ」と思ったのか、それともまったく無実のケイパーという人物を殺してしまったことを悔いてのことなのか(ラストにほとんど無意味に「将軍」が殺されることは、ケイパーを殺したことへの処罰のようにも思えるが)。

 この映画の評価としては、「かなり優れたスパイ・メロドラマ」と評したものもあったようで、高い評価をしたものも多かったらしいが、当時の「Monthly Film Bullettin」という「英国映画協会」の定期刊行雑誌では、映画の技術的な側面は評価しながらも、「(ヒッチコックが)何を理解しているのかを完全に理解するのはしばしば困難であった」として、「彼が戦争や無分別な殺人に対して徹底的に抗議しているのか、それとも単純なメロドラマを見せているだけなのか」との疑問を呈した。この感想にはわたしも同意する。
 また、少年期に『三十九夜』の原作者のジョン・バカンの小説の大ファンだったというグレアム・グリーンは、この映画の「メロドラマ的状況」はおざなりで、「矛盾、行き詰まり、心理的不条理に注意を払っていない」と、低評価を下していたらしい。
 わたしとて、せっかく昨日『三十九夜』をしっかり楽しんだというのに、一夜にしてこれだけガッカリする作品と出会うとは思わなかった。残念。