ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『リプリーをまねた少年』(1980) パトリシア・ハイスミス:著 柿沼瑛子:訳

 原題は「The Boy Who Followed Ripley」だから「まねた」というニュアンスではなく、「ついて行く」とか「追いかける」という言葉の方がふさわしいだろう。
 わたしが読んだのは1996年に刊行された「河出文庫」なのだが、同じ「河出文庫」で2017年に新装再刊されていて、柿沼瑛子の翻訳は同じなのだけれども、どうやら巻末に新たに「解説」が掲載されているようだ。どうもその解説には、この作品執筆当時にハイスミスが交際していた女性との関係、そしてこの『リプリーをまねた少年』への反映などが書かれているらしい。
 わたしが先日観たドキュメンタリー『パトリシア・ハイスミスに恋して』でも、そのあたりのことは語られていた記憶はあるのだけれども、当時この『リプリーをまねた少年』は読んでなかったこともあって、具体的な記憶は残っていない。
 ただ、その『パトリシア・ハイスミスに恋して』のパンフレットをみると、『リプリーをまねた少年』が発表された1980年頃にはハイスミスはドイツのアーティスト・女優のタベア・ブルーメンシャインと交際していたとあり、つまりこのタベア・ブルーメンシャインとの交際が、『リプリーをまねた少年』に反映されたのだろう。

 じっさい、ハイスミスは『リプリーをまねた少年』執筆時の1976年にベルリンを訪れ、そのときの見聞、体験をノートに書いていたらしく、そのノートがこの『リプリーをまねた少年』の中でトム・リプリーの体験として書かれているわけだろう。
 『リプリーをまねた少年』の中にベルリンでのゲイ・バーの印象的な描写があり、そこにトム・リプリーは女装の姿で訪れたりもするのだけれども、それは『パトリシア・ハイスミスに恋して』で言及されていた、デヴィッド・ボウイも訪れていたというゲイ・バーがモデルなのではないかと思われる。

 ひとつ、この『リプリーをまねた少年』で気がつくのは、ディテール描写が細かいこと、トム・リプリーの主観描写が多く感じることだったのだが、それもまた、ハイスミスが自らのノートブックをそのまま『リプリーをまねた少年』に生かしているのだろうということで、ここではハイスミスは、自らをリプリーに同化させて描いているのではないかと思ってしまう。

 この作品でのリプリーは、これまで3作のリプリー像のイメージとはけっこう異なっているだろう。作品の冒頭から、住まいのベロンブルの建物のメンテナンスを行い、妻のエロイーズと語らうリプリーの姿は、洗練された生活をエンジョイする「若くして足を洗ってカタギになった元ヤクザ」とでもいった感じで、けっこう今までにない柔らかい空気感がある。
 そ~んなところにフランクという少年(16歳)がやって来て、ベロンブルの庭の手入れの手伝いなどを始める。リプリーはこの少年、先日新聞沙汰になっていたアメリカの富豪実業家の次男で、車椅子を使っていたその実業家が崖から転落して死亡したしばらく後に家出したという少年なのではないかと推測する。じっさいリプリーの推理通りで、少年は実家にあったダーワットの絵のことから「トム・リプリー」の存在を知り(このあたりはリプリー第2作『贋作』からの流れ)、リプリーに会うためにアメリカからフランスに渡って来たのだった。
 さらにリプリーは推理を進め、「フランクの父親の死はフランクがやったのではないのか」と問い詰めるが、フランクは「自分が車椅子を崖のふちで押して落とした」と語る(これが「事実」なのかどうかはだんだんと疑問にも思えるようになるが)。
 リプリーはフランクに「父親殺しのことはわたし以外の誰にも言わない」と誓わせ、早くアメリカの実家に戻るべきと説得するが、フランクの気持ちの落ち着くまではいっしょに過ごすことにする。じっさいリプリーは、フランクの中にかつてグリーンリーフを殺害したときの自分を重ねてみていて、ある種の心の絆のようなものを感じているようだ。
 それはフランクの側も同じで、フランクは自分が知ったトム・リプリーの経歴から、「リプリーは人を殺したことのある人物ではないか?」と認識し、リプリーに接近していたのだった。

 フランクの気分転換にと、リプリーは2人で観光気分でハンブルグへ足を伸ばし、そのあとベルリンにも行く。リプリーはフランクといっしょに動物園へ行ったりして、「何だ?この2人は?」ってな感じではある。
 ところがそのベルリンで、ちょっとしたスキにフランクは誘拐されてしまうのだった(富豪の息子のフランクが家出しておそらくはヨーロッパにいることは新聞ネタにはなっていたわけで、「誘拐して身代金をせしめよう」とする悪党はいたわけだ)。
 リプリーはフランクの捜索のためにフランスに来ていた探偵のサーロウ、フランクの兄のジョニーから誘拐犯からの連絡内容を聞き、よく仕事を手伝っていたリーヴス・マイノット(前作『アメリカの友人』での仕掛人)の友人のエリック(最近、やはりリーヴスとの縁で彼をベロンブルに宿泊させていた)、さらにその友人のペーターらと連絡を取り、ベルリンのゲイ・バーを身代金受け渡し場と誘拐犯らに伝えさせ、自ら女装してそのゲイ・バーへ出向くのだった(ちょっとビックリの展開)。
 ゲイ・バーにあらわれた誘拐犯の目星をつけ、リプリーは犯人のあとをつけて誘拐犯のネジロへ行き、単身犯人の一人を殺害してそこにいたフランクを救出するのであった。幸いにも犯人らは背後関係もないチンピラだったらしく、まさに「一件落着」だったらしい。この作品後半での、そんなエリックやペーターらリーヴス・マイノットつながりの連中とリプリーとの、友情をも思わせる信頼関係というのも今までになかったもので、リプリーの「人間らしさ」みたいなものを垣間見る気分ではあった。

 アメリカの実家にもフランクの居所が連絡できたことにもなり、「めでたしめでたし」かとも思えるけれどもさにあらず。兄とのやりとりで恋人に去られたことも知ったフランクは、父とのこともあり大きな「アイデンティティーのゆらぎ」に囚われていたのだ。
 けっきょく、リプリーもフランクと共にアメリカのフランクの実家へ行くことになる。フランクの誘拐事件は警察沙汰にはなっていないが、サーロウからの連絡でフランクの母親は「リプリーこそ事件を解決した人物、恩人」と認識している。
 リプリーはフランクが立ち直るため、(柄にもなく?)フランクの精神的「師」の役を演じようとしているのだが。

 今までの作品のトム・リプリーは、「今オレがやっていることは<悪事>だ」という認識、もしくは「ここで目の前の人物を始末しないとヤバい」という認識で無慈悲な殺人を行ってきたわけで、それは自分自身を救うためのエゴイスティックな「犯罪」だったわけだけれども、この作品でのリプリーは、「あくまでフランクを救うため」という行動原理があるのみで、エゴの入り込む余地もない。
 そういう意味では、先に書いたように「足を洗った元ヤクザ」が、人助けのために「自分の過去のスキル」を使ったもの、という展開のストーリーだろう。

 もうひとつ、「同性愛」という問題があるけれども、この作品ではリプリーがフランクに抱いた気もちもあるだろうが、それ以上にフランクの側にリプリーを慕う気もちが強いようで、その描写の端々にパトリシア・ハイスミスの「うまさ」というのが光っている。

 ラストは、何となく想像もついていたラストだったけれども、またベロンブルに帰還してきてエロイーズと会い、また屋敷のメンテナンスのことを考えるリプリー、どことなく「ふっ切れた」明るさに満ちているように読み取った。
 これまでのパトリシア・ハイスミスのどんな作品とも異なるテイストのこの作品、けっこう「傑作」なんじゃないかな、などとは思うのだった。