ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア』(2017)ヨルゴス・ランティモス:監督

 脚本は今まで観たヨルゴス・ランティモス監督の作品と同じく、ヨルゴス・ランティモスとエフティミス・フィリップによるもの。「The Killing of a Sacred Deer」という原題で、だから「鹿殺し」が聖なるものではなく、「聖なる鹿」を殺す、という意味ではある。これはこの映画が下敷きにしているエウリピデスによる悲劇「アリウスのイピゲネイア」の中で、アルテミスへの生贄にされるところだったイピゲネイアが、直前にそのアルテミスによって牝鹿に置き換えられて救われた、ということによるようだ。

 主人公のスティーヴン(コリン・ファレル)は心臓外科医で、妻のアナ(ニコール・キッドマン)と14歳の長女のキム、その弟のボブと一緒に豪華な邸宅に住んでいる。
 スティーヴンは最近、マーティン(バリー・コーガン)という16歳の少年と会い、自分の腕時計をあげたり何かと親切にしてやっている。それは過去に自分がマーティンの父親の担当医で、その父親が亡くなったからだということ。あるときスティーヴンはマーティンを自宅に招き、家族を紹介もし、特にキムは彼に惹かれた様子ではある。だんだんにマーティンはスティーヴンの病院にアポなしに会いに来たりするようになってしまう。
 あるとき、マーティンは自分の家に来て母に会ってほしいと言い、マーティンは彼の家に行きその母親に会うのだが、母親はマーティンのいないときに「スティーヴンの手がきれいだ」と迫り、彼を誘惑するようなそぶりを見せるのでスティーヴンは振り切って家を出る。
 そのあとマーティンはスティーヴンの病院で、「先生は僕の父親を殺したのだから、先生の家族の誰かも死ななくてはならない」と語る。死ぬ人間は第一段階で歩けなくなり、第二段階で食欲がなくなり、次に目から血が出るようになり、そして死ぬのだと言う。「その誰かを、先生が決めるのです」と。
 スティーヴンはマーティンを追い出すが、そのあと弟のボブが急に歩けなくなって入院する。検査しても異常は見当たらない。そして次に、キムもやはり歩けなくなるのであった。

 観ているとマーティンがただただ薄気味悪く、「これは悪霊のような存在なのではないか」と思ってしまう。そう思って観ていると、マーティンの家の外観も不気味に見えてしまうのだ。
 スティーヴンの話からアンは「また子供はつくればいいから一人が死ぬことに同意しよう」とも言う。
 しかしついにわかるのは、「スティーヴンはマーティンの父親の手術のときに飲酒していた」ということ。そして、マーティンの話ではマーティンの母とスティーヴンとは関係を持っていたという(真偽のほどは不明だが)。

 これで、マーティンがスティーヴンに語った「誰かが死ななくてはならない」というのは「生贄を捧げよ」という「神託」なのだ、ということになり、まさに「アリウスのイピゲネイア」をなぞらえたストーリーになるのがわかる(ただし、「アリウスのイピゲネイア」では生贄を誰か選ぶのではなく、さいしょから生贄はイピゲネイアと定まっているが)。
 さいしょにマーティンを「悪霊」と思ったのは誤りで、彼は女神アルテミスとして「神託」を下しているのであり、「過ち」を犯したのはスティーヴンで、彼は「アガメムノン」としてアルテミスの怒りを鎮めなくてはならず、妻のアンはアガメムノンの妻「クリュタイムネストラ」として、アガメムノンがイピゲネイアを生贄に捧げる手助けをするのだ。
 先に書いたように、エウリピデスの「アリウスのイピゲネイア」の写本では、生贄にされようとしたイピゲネイアはさいごのしゅんかんにアルテミスによって「牝鹿」にすり替えられ、イピゲネイアは生き延びることになる。

 もちろん、このような部分はこの映画とはまるで異なる展開であり、何もかもエウリピデスの「アリウスのイピゲネイア」によって解釈しようとするのは愚かな観方ではあろう。スティーヴンは妻のアンとキム、そしてボブの三人を標的に、ロシアンルーレット的な方策で「生贄」を決めるわけだし。
 ただ、ここで興味深いのはここから先で、「アリウスのイピゲネイア」以降の話ではクリュタイムネストラは夫のアガメムノンを殺してしまうのであり、さらにクリュタイムネストラは、イピゲネイアの弟のオレステスに殺されるのだ。
 (ばかばかしい考えだということを承知で)そのことをこの映画に当てはめるならば、つまりこののちスティーヴンはアンに殺され(じっさい、アンはスティーヴンが飲酒して手術を行って失敗し、今回の災厄の元凶をつくったことを知っている)、さらにその先では、生き残っているきょうだいのキムによって、アンもまた殺されるのである。めっちゃ面白い展開ではないか。『聖なる鹿殺し2』として、続編映画化してほしいところである。

 さて、前回『籠の中の乙女』では、無機質な固定視点からのフィックスカメラを多用していたのが、この作品では、病院の長い廊下ではカメラは人物を追って移動して行くし、ズームイン、ズームアウトが多用されていることに、いやがおうでも気がつく。
 撮影は今までのランティモス監督作品と同じく、ティミオス・バカタキスという人物だけれども、この作品で撮影賞も受賞している。そうそう、この作品はカンヌ映画祭で「最優秀脚本賞」を受賞している。
 わたしには、その「アリウスのイピゲネイア」とともに考えて、とっても「面白い」作品ではあった。