ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

2024-01-27(Sat)

 以前、動物病院で処方してもらっていた「抗生物質の軟膏」が、どこかにまだ取ってあるんじゃないかと思って探したら出てきた。それで、いつものようにホットカーペットの上でまどろんでいるニェネントくんの右眼の患部、傷ついて血がにじんでしまっているところにつけてやろうとしたら、ものすごく嫌がって逃げて行ってしまった。あらあら。

 北のスーパーでは毎週、特売品のチラシをつくっていて、もちろん店にも置いてあるのだけれども、ネットでも見ることができる。そんなにしょっちゅう見ることはないのだけれども、この日見てみたら「白米」が安く売られていた。ちょうどそろそろ米びつの白米も残り少なくなって来ているので、「では」と午前中に出かけた。ところがスーパーに着いてみると、もう売り切れていたのだった。チラシが出されてからもう4~5日経っていたし。
 前回もこれとまったく同じことをやっていたわけで、白米は安売りされても早くに売り切れてしまうようだ。もうちょっとネットでチラシをチェックすることをひんぱんにやらなくってはいけないか。
 それで、「お米用」にと大きいマイバッグを持って買い物に来ていたので、「ネコ砂」を買って帰った。あと、前から非常時用に「保存水のペットボトル」を買っておこうと思っているのに、この日もまた買うのを忘れてしまった。やはり買い物に行くときには「買うもの」を書いたメモを持って行くべきかも。

 スーパーからの帰り、ウチのすぐそばの家の植え込みの、梅の花がもう咲き始めていた。もう春は近いか。

     

 報道では、能登半島の被災地ではまだ断水している地域が広範囲にあり、これが復旧するにはまだ2ヶ月もかかったりするという。毎日テレビの昼のニュースではその日の給水地点、給水時間などを報道されている。まさにまだまだ「災害」は継続中で、被災地の人たちはどれだけ苦労されていることだろうと思う。

 あの「京都アニメーション放火殺人事件」の裁判員裁判の判決が出て、被告に「死刑」が求刑された。それはもうあれだけの犠牲者を出した犯罪なわけだし、日本の法制度のもとでは「死刑」は免れないとも思うのだが(わたしの本心を言えば「死刑制度」には反対だが)、しかし被告は今でもまだ「京アニに自分の小説をパクられた」という考えを捨てず、心のこもった謝罪もなされていないようだ。それは言ってみればいまだ「心のねじ曲げられた状態」で、犯行への反省の心もないように思える。
 わたしは、そんな人物を「更生の見込みなし」として極刑に処することは仕方ないとも思うが、今のまま死刑にされても彼の魂は救われない。それは犠牲者もまた救われないということではないだろうか。「何十人もの人を死に至らしめた人間の魂など消えてしまえ」と、ある意味見捨てるのではなく、刑執行の前に「オレが間違っていた」と悟らせることが大事なのではないだろうか。自分が手をかけて死に至らしめた犠牲者ひとりひとりに対して、被告自身が「オレはなんて酷いことをしてしまったのだろう」「自分の考えは妄想だった」と気づき、心から詫びの気もちを抱くようには導けないものだろうか。そうでなければ、瀕死の重態だった彼の生命を救った意味も失われる。刑の執行までのあいだに、そういう「導き」が出来ないものだろうか。って、わたし、クリスチャンみたいなこと書いてるが。

 もうひとつのニュース。49年前の「連続企業爆破事件」で長く指名手配されていた男の所在がわかったのだという。男は以前から「胃ガン」で偽名を使って治療を受けていて、今月に入って入院しているらしいが、病状は重いという。どうも自分から「わたしは指名手配されている〇〇だ」と話したらしい。
 その「指名手配」のポスターは、今でもウチの最寄り駅のそばの交番に貼られているのを憶えている。
 ニュースでは彼は「最期は実名で迎えたい」と話していたというが、さっきの「京都アニメーション放火殺人事件」の被告ではないけれど、これは「死ぬ前に懺悔をしたい」という気もちのあらわれなのだろうか。というか、これまで何十年も「嘘」の名前で生きて来て、この最期のときに「嘘をついたままこの生を終わらせたくない」と思ったのではないだろうか。だとしたら、そういう気もちは理解できる気がするが。

 今日のカウリスマキの映画は、『レニングラードカウボーイズ、モーゼに会う』を観たのだった。