ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『ザ・キラー』(2023) デヴィッド・フィンチャー:監督

   

 そもそもの原作はフランスのグラフィック・ノヴェルということで、そこから『セヴン』の脚本家アンドリュー・ケヴィン・ウォーカーが脚本を手掛けた。
 マイケル・ファスベンダー(冒頭からラストまで、まさに「出ずっぱり」)演ずる雇われ殺し屋が依頼された殺しを失敗する。依頼主は殺し屋を消そうとして別の殺し屋を使って彼の住まいを襲うが彼は居ず、そこに居た殺し屋の妹に重傷を負わせる。殺し屋は、自分を殺そうとした奴ら、妹を傷つけた奴らをひとりひとり復讐していくのだ(傷つけられた女性を多くの解説、感想では殺し屋の「恋人」としているけれども、わたしは映画の後半で「妹」と言われていたと思うので「妹」とした)。主人公はその場その場でさまざまな偽名を使い分けるが、その本名はわからない。

 冒頭の依頼されたパリでの「暗殺」のシーン、ビルの中の廃事務所のようなガランとしたスペースの窓から、向かいのビルの窓の奥にいる「ターゲット」を狙う。このロケーションが黒沢清監督のよく使うような場所で、わたしとしても興味津々になる。主人公は「ザ・スミス」を聴いている。
 とにかく全編を通して主人公のモノローグがつづくことになるし、主人公のストイックな「自分を律する」姿が印象的。「失敗」という言葉にまるで縁のないようなモノローグだが、この「狙撃シーン」、「そりゃあ失敗の確率高いだろうに」という状態での狙撃で、案の定「失敗」。
 失敗のあとも使用した武器、道具など手際よく処分して逃走し、ドミニカにある隠れ家へと戻る。しかし追手がすでに隠れ家を襲っていて、妹がひん死の重傷を負って倒れている。このシーンでは「ポーティスヘッド」の曲が流れていて、わたし、喜ぶ。
 入院した妹から襲ってきた2人のことを聞いた主人公は、そこから「復讐」のために(というか、自分の身も守るため?)アメリカのあちこちに飛ぶのである。

 まるでジェームズ・ボンドのように、彼はいろんなところにさまざまな武器などをキープしてあるし、足りないものは「Amazon」で買ったりする。ここから先、彼は少なくとも5人の男女を殺害していくが、映画はその殺害のさまを冷酷にしっかりと捉えていく。その殺しの度に彼は自分の「仕事~殺し」の原則精神を繰り返す。「感情移入をするな」「予測して、即興を行うな」など。

 ニューオーリンズのオフィスでの殺しのとき、ターゲットと共にターゲットの秘書の女性もその場に居たのだが、彼女は「自分が殺されること」を悟り、自分の子供に生命保険がちゃんと行くように、疑わしさのない殺し方をしてほしいと彼に言う。彼は階段のところで彼女を射殺するが、それが彼女の遺志を聞き届けたものかどうかはわからない。

 ニューヨークにいたターゲットは、妹が「綿棒のような女」と語った人物で、これをティルダ・スウィントンが演じている。高級レストランでディナー中の彼女の前に男は座り、彼女は男にウィスキーをふるまい、クマに関するジョークを話して聞かせる。
 レストランを2人で出たとき、彼女は転倒して「起こして」と彼に言うが、彼は彼女の額を銃で射貫く。倒れた彼女の手にはナイフが握られていたが。

 観終わってみれば、男がターゲットを探し出すのにさほど逡巡するわけでもなく、観客としてはただ、マイケル・ファスベンダーの行動を追って行くばかりではあって、正直プロットとしての面白さがあるわけでもない。
 しかし、この映画を観ているときにはグイグイと引き込まれ、映画の中の世界に囚われてしまう。だからラストにドミニカの海岸で男が妹と並び、この映画で初めての笑顔をみせて「大勢の中の一人」になれたように見えるとき、観客であるわたしの気分も大きな安堵に包まれる。

 この映画の良さはもちろん撮影(エリック・メッサーシュミット)の手腕でもあるだろうが、わたしにはこの映画の「編集」こそが映画のリズムをつくり、観客に一定の緊張感を保たせていたのではないかと思った。とにかく、この作品でのスムースな「つなぎ」の成果というのは見落とされがちだと思ったけれども、主人公のモノローグにある「精神」をしっかりと活かした編集ではないかと思った。編集担当はカーク・バクスターという人で、『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』以来すべてのデヴィッド・フィンチャーの作品を担当していて、すべての作品で何らかの「優秀編集賞」にノミネート、受賞されている。
 あと、音楽もデヴィッド・フィンチャー作品でおなじみのトレント・レズナーアッティカス・ロスで、この音を聴くだけでも、ウチのテレビなどでなく映画館でこの作品を観た甲斐があったと思える。

 この映画のクールな主人公は、「殺し屋」ということと合わせても、マイケル・ファスベンダーの役作りの上でも、メルヴィルの『サムライ』を想起させられるところはあった(『サムライ』のようなドラマこそなかったが)。
 また、先に書いたように、主人公が隠れ家で「武装」するシーンなどからは、ジェームズ・ボンドのスパイ映画を思わせられたりもしたけれども、デヴィッド・フィンチャー監督は過去に、そんなジェームズ・ボンドをのちに演じたダニエル・クレイグの主演で『ドラゴン・タトゥーの女』を撮っていたことも思い出すのだった。
 つまらないことをひとつ書けば、劇中でラップトップ・コンピュータをドリルで穴をあけて破壊するというシーンには、やはり日本人だから笑ってしまった。
 けっきょくやはり、デヴィッド・フィンチャーの映画は、いつも素晴らしいのだ。