ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『終りなき世界 90年代の論理』 柄谷行人・岩井克人:著

 対談の一人、岩井克人氏とは理論経済学の学者で、『不均衝動学』という著作で国際的に知られる人だという。柄谷行人氏とは非常に親しい仲だというが、そんな2人が1990年の春に行った対談を書籍化したのがこの本。
 1990年当時の世界情勢を、「資本主義」というキーワードから主に経済学の面から捉えた対談で、「そりゃあわたしなどの理解できるモノでもないだろう」とも思っていたのだが、そんな1990年という時制のアクチュアリティを越えて、けっこう原理的なことも平易な言葉で語られてもいたので、わたしも何とか投げ出さずに最後まで読めたし、わたしなりに学ぶことも多かった。

 1990年春というのは日本でつづいていた「バブル景気」にそろそろ「翳り」が見えてきただろうか、という時期だった。まだ存続していたソヴィエトではゴルバチョフ国家元首で「ペレストロイカ」を推進していたが、長年の「東西冷戦・対立」も決着が着くのかという時期でもあり、「ベルリンの壁」が崩壊して半年も経たないことからも「共産主義陣営の崩壊」という時期でもあった。

 もちろんわたしはこの本で、「資本主義」を中心に語られる世界経済の動きについてさほど理解できているわけでもないのだが、このお二方の語られるには「資本主義」にはさまざまな形態があり、例えば日本でいえば「日本型資本主義」ということになる。

 それでも読んでいて「これ!」と思ったのは、「共産主義というのは畢竟『一国型資本主義』なのだ」という言説で、つまりロシアではヨーロッパの先進国に追いつくためにも「共産主義」という経済路線を取ったわけだという分析。例えばスターリンなどはあれだけひでえこともやったわけだが、彼の経済政策でソヴィエト・ロシアでは国民の完全雇用がいつ減もしていたという。
 この考えを進めると、ヨーロッパ諸国に追いついたソヴィエト・ロシアには「共産主義」を継続する意味合いがなくなってしまったというのが、1990年現在のゴルバチョフのソヴィエト・ロシアの立ち位置だという。
 実はこの考えは日本にもあてはまるらしく、第二次世界大戦で敗れた日本はそこから西欧先進国に追いつこうと、「共産主義」ではない「日本型資本主義」路線を突き進んだわけだ。そんな日本も「ジャパン・アズ・ナンバーワン」などということになり、追いつこうとした西欧諸国に追いつくどころか追い抜いてしまった。これからは「停滞」の時代になるかもしれないと語られていて、それはまさに何年か後からの「失われた30年」を予知したものといえるのかもしれない。

 また、ゴルバチョフはソヴィエトをかつての「東ローマ帝国」に匹敵するものにしようとし、自らも「皇帝」になろうとしているのではないかということだったが、現実にはソヴィエト・ロシアは崩壊してしまったわけだ。
 しかし今のロシアを考えてみると、まさにプーチンは「東ローマ帝国」を夢見ているようにも思えるし、彼自身「皇帝」になりたがっているようにもみえる。

 「民主主義」についても、「民主主義」と「自由主義」というのはまったく相容れない別モノであるということ。このあたりは今書いていて読んだ記憶が不確かになっているので、あんまりしっかり書けないが。

 日本の戦後に関して岩井氏の語るには、70年代からの日本は「ポスト・モダニズム」の名のもとに江戸時代の閉じられた「スノビズム」に回帰しているという(ここは簡単に説明することはむずかしいのだが)。その例として、第二次世界大戦の経験がいつのまにか「歴史」から「神話」になってしまっているという。「神話」とは経験を吸収してしまう装置だというが、なるほどこの言説は理解できる。特に「靖国神社」というものは、まさに「神話維持装置」としてはたらいているのではないかと、わたしなどは思うのであった(ちょうどこの日は「終戦記念日」ではあった)。

 対談の終盤は「世界の終わり」を目指す資本主義と、それでもやはり「終わらない」資本主義について話が進行し、わたしにはまるでこの世界をSF的に解明しているようで、とっても面白かった(正当な理解ではないだろうが)。

 30年以上の時を経てもなお、日本や世界の情勢を考える上であれこれと参考になる本だとは思った。またもういちど読み返してみたいとは思っている。