ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『大人は判ってくれない』(1959) フランソワ・トリュフォー:監督

 なんてみずみずしい、素晴らしい映画なんだろう!

 これはフランソワ・トリュフォーの長篇第一作で、脚本にはテレビの脚本家のマルセル・ムーシーが協力している。原題は「Les Quatre Cents Coups」というもので、Wikipediaによればフランスの慣用句「faire les quatre cents coups」(「無分別、放埓な生活をおくる」といった意味)に由来するという。強いて原題を直訳すると「400回の殴打、打撃」とかいう意味で、映画の中の親や教師の主人公への仕打ちをあらわしているのかと思ってしまうが、そういう意味ではないらしい。
 英語圏では、原題の直訳で「The 400 Blows」というタイトルになっているらしいが、そりゃあぜんぜん違うだろう、という感じだ(邦題の『大人は判ってくれない』というのも、いいようで映画内容を外していることに変わりはない)。

 映画はトリュフォーの少年期を描いた「自伝的作品」と解釈されていて、主人公のアントワーヌ・ドワネルはいたずらを繰り返して家庭や学校、社会に適応出来ないでいるように描かれている。
 でも映画を観ると、そういう悪ガキなのはアントワーヌ・ドワネルひとりではなく、彼のいちばんの友だちのルネ・ビジェーだっていっしょになっていたずらしたり学校サボったりしているし、教室の授業の様子を見ていると、ふざけてマジメに授業を受けていない子はまだまだいっぱいいる。傑作なのは「課外授業」か何かで、先生が生徒たちを引率して学校の外を歩いて行く、ビルの上からでも撮った長いシーンで、生徒たちはだんだんに列から抜けて街の中に逃げて行き、さいごには先生の真後ろの2人だけになってしまったりする。このシーンはジャン・ヴィゴの『新学期 操行ゼロ』へのパスティーシュらしいのだけれども、「み~んな誰だって、ある程度は悪ガキなのだ」というのがよくわかるシーンだ。

 例えば学校で「先生が厳しい」というのでは、しばらく前に観たアッバス・キアロスタミ監督の『友だちのうちはどこ?』でもやはり、そんな先生のちょっと理不尽な厳しさが映画の大きな背景になっていたけれども、『友だちのうちはどこ?』では「そんな先生に怒られないように」と、みんな一所懸命になるわけだ(まあそういうのが「教育」の理想的な姿でもないだろうが)。
 しかし、この『大人は判ってくれない』では、アントワーヌはそんなには「先生に怒られないようにしよう」とは考えないみたいだ。たしかに学校をサボったあとには「どうやって言い訳しようか」と考えたりするけれども、それが「母が亡くなりました」とか、すぐにバレてよけいに怒られてしまうような言い訳を平気でしてしまう。そのあたりがまさにタイトルの「無分別、放埓」ということのあらわれなのだろうけれども、そういうことがエスカレートして「いたずらする」→「ヘタな言い訳をする」→「もう家に帰れないと思う」→「家出してひとりで生活すると思う」→「生活資金を得るために父の会社に忍び込み、タイプライターを盗んで売却しようとする」→「警察につかまり、留置所に入れられる」→「母親にも見捨てられる(ちょっとヒドい母親だが)」→「少年鑑別所送り」となってしまう。
 まさに「無分別、放埓」のなれの果てみたいでもあるけれども、それは邦題の『大人は判ってくれない』というのとはちょっと違うと思う。アントワーヌが「判ってほしい」のは何なのか。ただ、アントワーヌが読んだバルザックの影響で学校の宿題の作文を書くが、先生が「バルザックの模倣だ!」と罵倒するというところは、バルザックとほとんど同じだけれども「丸写し」でもなく、先生は「バルザックを読んでいる」アントワーヌを評価してあげてもいいように思った(ここでアントワーヌの「作家への芽」は摘まれたな)。

 ラストは、アントワーヌはその少年鑑別所からも逃げ出し、どこまでも走って走って海辺までたどり着き、波打ち際に足を浸して撮影カメラを振り向くところで終わる。この、どこまでも走って行くアントワーヌをほとんどノーカットで追うカメラが素晴らしい(撮影監督はアンリ・ドカエ)。カメラが海辺を写してそれから左にふれると、そこの木陰に後ろ姿で走って行くアントワーヌがいて、そこからはまたアントワーヌの動きをラストまで追って行く。
 おそらくはアントワーヌも生まれて初めて「海」を見たのではないかと思えるけれども、カメラを見返すちょっと不安げなアントワーヌの表情は、「こ~んなところまで来ちゃったよ、さあこれからどうしようか?」とでも言っているように、未来を見つめているようだった。