1962年にトリュフォーがアメリカにヒッチコックを訪ね、ヒッチコックを相手に行った6日間に及ぶインタビュー/対談をもとに『定本 映画術 ヒッチコック/トリュフォー』(邦題)という書籍が刊行された。この映画はその2人の対談、刊行された書籍を題材としたドキュメンタリーで、「ヒッチコックの創造の秘密」に迫るというような内容になっている。
わたしはこの作品を「U-NEXT」で観る前に『ヒッチコック~天才監督の横顔』という作品をYouTubeで観てしまったもので、このヒッチコックを扱った2本のドキュメンタリーが、わたしの頭の中でごっちゃになってしまっている感がある。
『ヒッチコック~天才監督の横顔』も、俳優らゲスト陣が豪華だったのだけれども、この『ヒッチコック/トリュフォー』にも、ヒッチコックを敬愛する映画監督10人がヒッチコックについて、ヒッチコックの作品について語るという豪華な作品になっている。
その10人の中に黒沢清監督も選ばれているのがうれしいところだけれども、監督によっては一度しか登場しないケースもあり、黒沢清監督もたしか2回だった。いちばん多くしゃべっていたのは多分、デヴィッド・フィンチャー監督とマーティン・スコセッシ監督だったろうと思う。
もとになったインタビュー/対談では、トリュフォーはヒッチコックのすべての作品について順に質問をして行ったらしいのだが、この映画版はもちろんすべての作品を語る尺の長さもなく、特に『めまい』『サイコ』についてが、圧倒的に長い時間が取られていた(全体で80分しかない作品、もうちょっと長くして120分ぐらいには出来なかったものかとは思うが)。
『ヒッチコック~天才監督の横顔』と同じように、過去のヒッチコック作品の多くの引用から成り立っているところがあり、それでよけいにこの作品と『ヒッチコック~天才監督の横顔』とが混同されてしまう。
一方、トリュフォーが批評家としてデビューした「カイエ・デ・シネマ」の紹介から、わずかだけれどもトリュフォーの『大人は判ってくれない』の話をトリュフォーがして、ヒッチコックが意見を言う場面もある(『大人は判ってくれない』も映像も使われていた)。
ヒッチコックは「面白い映画を求める観客の期待を裏切るわけにはいかない」と語り、じっさいに観客を満足させるヒット作を生み出すのだが、そうすると批評家はそのような作品は批評価しない、ということが一般的な時代があった。ヒッチコックは「筋道(ロジック)なんか退屈だ」と語る。「時間を思いのままに操るのが演出の醍醐味だ」とも。
ただ、この2人のインタビュー/対談は1962年に行われたもので、ヒッチコックの作品としては『サイコ』が最新作、『鳥』はまだ撮影中(?)という段階だが、この映画では『鳥』はもちろん『フレンジー』も『ファミリー・プロット』の映像も使われている。インタビューではヒッチコックは『鳥』についても語っているが、それ以降の『トパーズ』などについての言葉は、このドキュメンタリーの監督の語っていることなのだろう。
もう後半はしっかり『めまい』と『サイコ』の話になってしまうのだけれども、『めまい』でのヒッチコック自身の解説が予想以上にセクシャルな解説で、ちょっと驚いてしまった。
ヒッチコックはこのときも『めまい』の女優はヴェラ・マイルズでやりたかったのに!と語っているが、ポール・シュレイダーは「ヴェラ・マイルズでは無理だっただろう。キム・ノヴァクだからこそ成立したのだ」と語っていて、わたしも「そうだ、そうだ」などとうなずいてしまった。
スコセッシは『めまい』は一篇の映画詩のようで、「物語をたどって観るのが困難だ」と話し、ジェームズ・グレイという監督さんは、キム・ノヴァクがバスルームで髪型を変えて出て来るシーンは「映画史上最高のシーン」、「幻想と現実が見事に融合した瞬間だ」と語る。デヴィッド・フィンチャーは「これは変態映画だ」と語り、「わたしもそう思ってたよ!」とわたしを喜ばせてくれた。
『サイコ』でも、スコセッシもフィンチャーも、まずはジャネット・リーの運転シーンがいいのだと語る。そしてピーター・ボグダノヴィッチは、『サイコ』の上映された映画館で、あのシャワーシーンで観客はまさに阿鼻叫喚、叫び続けていたと言い、スコセッシは「ストーリーテリングの傑作だ。こんな面白い映画はない」と語る。
ヒッチコックは、「映画の力とは、メッセージでも俳優の演技力でも原作の面白さでもなく、映像と音響、純粋に映画的な表現技術がすべてなんだ」と語る。
映画はトーキーになって、失ってしまったものがある。
この作品は単に『定本 映画術 ヒッチコック/トリュフォー』を映像に置き換えたものではなく、その本が刊行されて34年、さらに現代のヒッチコックに影響を受けた映画監督らのコメントを添えて、リニューアルさせたものだと言えるだろう(だから『鳥』以降の作品の映像も出て来る)。
しかし思うのだが、この映画を観てからそのあとに『めまい』や『サイコ』を観ることになる人たちのことが、ちょびっとかわいそうになってしまう(自分の眼で観ることが出来なくなってしまうだろうから)。