ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『ふたりのヌーヴェルヴァーグ ゴダールとトリュフォー』(2010) アントワーヌ・ド・ベック:脚本 エマニュエル・ローラン:監督

 脚本を担当したアントワーヌ・ド・ベックという人はフランスの映画評論家で、「カイエ・デュ・シネマ」の元編集長。トリュフォーの評伝も編集されているし(この本は邦訳も出ている)、この映画の公開された2010年にはゴダールの評伝も上梓されている。この映画の監督のことはわからない。

 この映画はもちろんフランス映画で、「ヌーヴェルヴァーグ」の全容を伝えようとする映画などではなく、そんな同じムーヴメントから出発したトリュフォーゴダールとの友情と確執、決別を描いたものであり、その二人の監督のあいだで俳優として成長し、同時に苦悩した俳優のジャン=ピエール・レオをも捉えた作品ではある。
 映画はトリュフォーの『大人は判ってくれない』のラストシーンから始まり、ゴダールの『勝手にしやがれ』(映画の原案はトリュフォーだった)へと移行して行き、初期のトリュフォーゴダールとの映画上での協力関係を描いて行く。

 それぞれが映画監督としてキャリアを重ね、1968年2月に「シネマテーク」のアンリ・ラングロワが更迭されたときには2人の監督は協調して更迭に反対した。映画ではこれが2人の監督の最後の協力関係とされ、その3ヶ月後の「五月革命」での「カンヌ映画祭ボイコット闘争」においてもゴダールトリュフォーも「カンヌ映画祭ボイコット」を訴えたが、このときこの2人の監督の姿勢には、その後拡大する大きな違いの端緒があらわれていた。

 ゴダールはその後映画の撮り方を改め、商業主義から脱した政治的な作品を撮るようになるが、トリュフォーは「政治を作品に持ち込む」ことには反対する立場から、従来のドラマ映画をつくり続けた。
 この時期ジャン=ピエール・レオトリュフォー作品にもゴダール作品にも出演していたが、「トリュフォーの映画に出ることは家族といっしょにいるようなもので、安心して落ち着ける」という一方、「ゴダールの映画から学ぶことは多い」というのだった。

 トリュフォーゴダールが完全に決別するのはトリュフォーが『アメリカの夜』(1973)を撮ったときで、それを観たゴダールトリュフォーに手紙を書き、「インチキ映画だ」(これは因縁付けではなく、映画批評としての言葉)と酷評し、同時に『アメリカの夜』に出演していたジャン=ピエール・レオへの手紙を同封したという。
 トリュフォーは20枚になる長い返信を書き「ゴダールは映画を政治利用している」とし、ジャン=ピエール・レオへの手紙もいっしょに返送し、これが2人の映画監督の関係の終焉になった。

 映画のラスト、タイトルバックには、ジャン=ピエール・レオ14歳のとき、『大人は判ってくれない』のオーディションのときの映像が流されるのだった。

 映像は2人の監督の作品の映像、そして2人のインタビュー映像などが使われていたが、わたし的にはゴダールの初期短篇『男の子の名前はみんなパトリックというの』や『水の話』(この作品はトリュフォーとの共同監督だったという)などの作品が、断片であっても観ることができたのがうれしかった。
 ただ、この映画の映像の中で幾度も、女性が映画雑誌の記事を読んでいたり、映画館で映画を観ていたり(寝ていたり)していて、わたしにはそんな映像が挿入されることの意味がわからなかった。

 映画のなかでトリュフォーの言葉として「時代が混迷するとき、わたしはマティスのことを思い浮かべる。彼は戦争に関係なく女性や花や窓越しの風景の絵をを描き続けた」「戦争など取るに足りぬことだった。重要なのは何千枚もの絵だ」「芸術のための芸術ではなく、美のために他者に尽くすための芸術だ」というのが紹介される。
 それはマティスは偉大な美術家だろうが、トリュフォーのいう「他者に尽くすための芸術」の、「他者」とはどんな存在なのだろうか?
 わたしは実存主義者などではないが、ここでの「他者」という見方こそ、実存主義が力を込めて批判したものだったろう、とは思う。これは別にゴダールの肩を持つわけではなく、ゴダールだってマオイズムに心酔したヤバい時期もあったわけだ。