ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『キャロル』(2015) パトリシア・ハイスミス:原作 トッド・ヘインズ:監督

 ご承知のように、わたしが最も愛するところの作家は、ウラジーミル・ナボコフパトリシア・ハイスミスとであります。そんなハイスミスの作品でも邦訳がいちばん遅れたのがこの『キャロル』原作で、まあこの作品はミステリーではないという理由もあったけれども(作者名も「パトリシア・ハイスミス」名義ではなかったし)、こうやってトッド・ヘインズによって映画化され、日本でも上映されたことで翻訳も刊行されたのだった。
 もちろんわたしも映画館へこの映画は観に行ったし、原作だってしっかり読んだわけだったけれども、そのどちらも、哀しい記憶障害のおかげですっかり忘却の彼方に消えてしまっていた。それでそのうちにまた、この原作をまた読んで映画をまた観たいなと思っていたのだけれども、映画の方が「GYAO!」で明日までの配信だというので、この日観てしまったわけである。

 この作品、じっさいにゲイであったハイスミスが『見知らぬ乗客』に続く第二作として執筆した作品で、「同性愛」を主題とした作品ということでハイスミス名義で刊行はされなかったけれども、相当の売り上げになった作品だったという。そんな小説を、彼自身もゲイであるトッド・ヘインズ監督が「百合映画」として美しく描き上げた作品。あくまでも美しくあるために、主演にケイト・ブランシェットルーニー・マーラを選び(お二人とも、わたしの大好きな女優さんである)、ケイト・ブランシェットが美しいのはもちろんだけれども、ルーニー・マーラにとっても、彼女のキャリアの中でももっとも輝いて、美しく撮られた作品だったろうと思う。
 そんな「百合映画」として、幻想的な美しさをあらわすために、例えば車のウィンドウの窓越しのフォーカスのボケた映像などが効果的に使われ、ここでの映画音楽はいつもはコーエン兄弟の作品で聴かれるカーター・バーウェルの音楽だったりもする。

 映画の中で、実ははたしてケイト・ブランシェットルーニー・マーラのどちらが「主役」なのか、ということもあって、アチラではケイト・ブランシェットが「主演賞」にノミネートされ、ルーニー・マーラは「助演賞」の方だったようだけれども、それは普通に考えるルーニー・マーラこそが主役だろうというのとは逆なのだけれども、たしかにケイト・ブランシェットを「主人公」とみる見方のドラマもまた存在するわけで、そういうぶっつかり合いも面白い映画だった。そういうところで、この作品が「作品賞」や「監督賞」にノミネートされないことへの疑問もあったようだ。わたしもこれは優れた演出の作品だとは思ったが。
 もちろん「百合映画」として、この映画はケイト・ブランシェットが「おぼこ」なルーニー・マーラを誘惑して「落とす」というのが前半で、ケイト・ブランシェットはその背後に「離婚問題」を抱えていて、そこにパトリシア・ハイスミスらしい(?)ミステリー的要素も入って来るけれども、ケイト・ブランシェットと知り合うことで「もっと別の世界」があることを知ったルーニー・マーラは、人間として成長するわけだろう。
 ラストにケイト・ブランシェットに「わたしを選ぶの? それとも‥‥」と問われたあと、一度は同世代の若者たちの世界を選ぼうとしたルーニー・マーラだけれども、そのパーティーでの皆の「頽廃」ぶりは彼女の選ぶものではなく、それは決してケイト・ブランシェットが裕福だからというのではなく(彼女はそういうのはもう捨てている)、カルチュラルな世界に足を踏み込んだはずのルーニー・マーラにとって、「彼女の選ぶ世界とは?」という問題でもある。

 映画(原作)の時制としては1951年とか52年あたりのことなのだろうし、その時代はハリウッドでも「赤狩り」真っ最中の時代でもあり、あったりまえだけれども自分が「ゲイ」だなどとカミング・アウトして生きて行けるような時代ではなかった(そういうところでこの映画のケイト・ブランシェットは「親権」を取り上げられる)。この作者のパトリシア・ハイスミスも、60年代にはヨーロッパに移住し、以後アメリカに戻ることはなかったわけだ。
 そういうところで、この映画のカップルの二人も、ラストにアメリカを見捨て、ヨーロッパへと跳ぶような展開を想像すると面白い。