ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『血を吸うカメラ』(1960) マイケル・パウエル:監督

 マイケル・パウエルはイギリスの著名な映画監督だが、特に1939年以降、脚本家だったエメリック・プレスバーガーと組み、後にはプレスバーガーとの共同監督として『黒水仙』『赤い靴』『ホフマン物語』などの名作を残している。一方でパウエル単独での監督作品も撮り続け、その後期の一作がこの『血を吸うカメラ』。この作品はWikipediaによれば、「性的・暴力的な内容から、公開当時はメディアや評論家から酷評を浴び、イギリスを代表する映画作家の一人ともみられていたパウエルの名声は失墜した」ということである。今となってはこの作品、同じ年にヒッチコックが撮った『サイコ』と比較される「名作」とされてはいるのだが。
 実はマイケル・パウエルは若い頃にヒッチコックの仕事を手伝ったことがあり、以降も親交は続いていたらしく、パウエル監督の中にはそもそも、サスペンス映画、スリラー映画への指向、嗜好はあったようだ。

 しかしこの『血を吸うカメラ』、原題は「Peeping Tom」といい、まさに「のぞき趣味」を意味する慣用句で、そのタイトルを聞けば「悪趣味で煽情的な露悪映画か」と思われても仕方がなかったのではないかと思ったりする。じっさい、下にこの映画のアメリカ公開時のポスターを載せておくが、はっきり言って、この映画が「見るに値する名作」とは考えにくいところがある(これは昔の日本の「ピンク映画」を思わせられるところがある)。

    

 今この映画が評価されるのは、これが「犯罪を犯す側の深層心理」、その人物の影の部分をクロースアップして描いているからだろうか。たしかにこの作品、普通の「犯罪映画」とはどこか違っている。

 映画はいきなり、小型映画カメラをふところにしのばせた男が、娼婦を殺害するシーンから始まる。その犯人の素性はすぐに映画にあらわれるわけで、この映画は「誰が犯人か?」というものではないし、また、「警察はどのように犯人を捕らえるか?」というものでもない(若干そういう要素もあるが)。ここではただ、「犯人はどういう男なのか?」「なぜそのような犯罪を重ねるのか?」という謎を解いて行くようである。さらにその犯人が女性と出会うことで生まれる「心の揺らぎ」をも描き、その女性との語らいから彼の幼年時代の体験が語られ、観客にはそこから彼の「トラウマ」「心の歪み」を知ることにはなり、「なぜその犯罪の様子をカメラで撮影するのか」という謎も解かれるだろう。

 ちょうどこの日、ネットでニュースを閲覧していると、ある男が女子中学生らに自分の下半身を露出させて見せ、その女子中学生の反応を撮影していたというニュースがあった。彼はかけていたメガネに隠しカメラを仕込み、それで撮影していたという。取り調べを受けた男は「リアクションを見るのが快感だった」と語ったということで、まさに『血を吸うカメラ』の主人公と精神的に近接しているというか、「同類」と言ってしまってもいいように思える。まさにここには自分が「見られる」ということと、そのさまをあとで自分が見るという関係性があるだろう。

 この映画の構成というのはやはり注視すべきところがあり、狙った女性を撮影する男のカメラの映像と、じっさいのこの映画の映像とがシンクロするというか、観客はまさに犯人の男が目にしたのと同一の映像を見ていることになる。
 ここで知り合った女性の母親が実は「盲目」で、その「感」で男のことを「怪しい」と思うわけで、「見ていないからこそわかることがある」というメッセージがある。犯人の男(カール・ベーム)の、気弱で神経質そうな描き方も、犯罪の残虐性との落差で強烈なものがあるだろうし、「この男は<恋>に発展しそうな、知り合った女性をも殺害するのだろうか?」と、見るものはドキドキしてしまうわけでもある。