ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『将軍たちの夜』(1967) ハンス・ヘルムート・キルスト:原作 アナトール・リトヴァク:監督

 「そういえば、アナトール・リトヴァクという監督さんがいらっしゃったよなあ」と思い出す。ユル・ブリンナーイングリッド・バーグマンの共演した『追想』や、同じイングリッド・バーグマンアンソニー・パーキンスと共演の『さよならをもう一度』なんかが日本でもヒットしたのだと思う。ちょっと調べるとロシア生まれ(1902年生まれ)だったらしいが、すんなりとドイツに渡っていて、そのあとはフランスやアメリカで活動されていたようだ。ロシア革命はまだこの人の若い頃だから、「亡命」ということでもないのだろうか。
 この『将軍たちの夜』はアメリカ時代の作品だけれども、原作はドイツの作家ハンス・ヘルムート・キルストによるベストセラー小説。イギリス、フランスとの合作で、撮影監督はなんとアンリ・ドカエ、そして音楽もモーリス・ジャール。俳優陣も「アメリカの俳優なんか使わないぜ!」みたいにほとんどがイギリスの俳優(映画の後半、フランスを代表してフィリップ・ノワレも登場)。

 映画は1942年のワルシャワから始まる。あるアパートの階段の上から女性の叫び声が聞こえ、その階段の上のドアを開けて男が下りてくる。階段を上がろうとしていた男がいて、脇のトイレに身を隠す。トイレのドアのすき間から、ナチス将校の制服のズボンの赤い線が見えるのだ。
 この冒頭のシーン、目撃者の視点から「全体が見えない」ということをうまく描写し、そしてそれ以上に、叫び声、ドアを開ける音、階段を降りてくる足音と、「音」というものをとってもうまく使っていたと思う。
 つまりその階段の上の部屋で、ある娼婦が残虐に殺害されていたのだが、ドイツ軍のグラウ少佐(オマー・シャリフ)がその捜査にあたることになる。その夜、その行動が不明だったワルシャワのドイツ軍将校が3人いる。カーレンベルク少将(ドナルド・プレザンス)とガプラー大将(チャールズ・グレイ)、そしてタンツ中将(ピーター・オトゥール)である。はい、もう犯人はわかりましたね。

 タンツ中将はヒトラーの信任厚い軍人で、ここでもワルシャワ制圧に手腕を発揮する(この、ワルシャワ市街を火炎放射器で焼き払うのを指揮するタンツの姿はかなり強烈)。
 ここで、捜査するグラウはうざったいので、パリへと左遷されてしまう。
 しかし戦局は変化して、1944年、その3人の将校も皆パリへと来てしまうのだ。そして実は、カーレンベルクとガプラーは、あの「ワルキューレ作戦」というのか、「ヒトラー暗殺計画」に加わっているのだった。カーレンベルクとガプラーは自分たちの計画に邪魔なので、タンツに無理矢理休暇を取らせる。このとき、タンツの休暇でパリを案内するのに、ハルトマン伍長(トム・コートネイ)が任にあたる。
 そのタンツのパリ見物で書いておきたい強烈なシーンがあるのだけれども、そのことはもうちょっとあとで。

 タンツは夜のバーへ行きたいと言い、ハルトマンは案内する。ハルトマンは車で待機し、タンツはバーでひとりで酒を飲んでいる。そこにバーにいたひとりの娼婦がタンツにモーションをかけるのだが、タンツはその場では無視をする。
 そのあと、タンツは唐突に「わたしは明日まで休暇を延長することにした」と言い、翌日、またもハルトマンはタンツを案内する。また昨夜のバーのところに来て、タンツはハルトマンに「中にこれこれしかじかの女がいるはずだから、誘い出して来い」と命じる。バーを出た娼婦はタンツを見て「なんだ、あんただったのね」って感じで、自分のアパートに案内するのだった。
 ハルトマンはまた車の中で待機していたのだが、タンツが彼を呼ぶ。ついて行ってみると、部屋の中に娼婦の惨殺死体があった。タンツはハルトマンに、「バーからこの女を連れだしたのはお前で、見たものは大勢いる。誰もがお前が犯人だと思うだろう。金をやるから出来るだけ遠くへ逃げろ」と金を渡すのだ。

 一方そのあとグラウは、またワルシャワのときと同じ殺人があったことから、調査の結果「タンツこそが犯人」と突き止める。このときパリでグラウに協力するのがモラン警部(フィリップ・ノワレ)だが、彼はフランスのレジスタンスに協力してもいる。
 実はそのとき、同時に「ワルキューレ作戦」が進行していて、けっきょくは失敗するのだが、実はいちどはヒトラーが暗殺されたとの知らせがパリにも流れる。それがグラウがタンツのところに行ったときと重なるのだが、「ヒトラー暗殺」の報を受け、グラウはタンツを逮捕しようとする。しかしそのとき、暗殺計画は失敗し、ヒトラーは健在との最新情報がラジオから流れる。それを聞いたタンツは銃を取り出し、グラウを射殺する。

 っつうことで「事件」は解決しないまま戦争は終結し、タンツは「戦犯」として20年収監される。さいごの「解決」は、タンツが釈放されたあとに訪れる。それは「見てのお楽しみ」。

 とにかく、どんなときも面を被ったように表情をまったく動かさないタンツ(ピーター・オトゥール)が強烈というか「すごい」のだが、そんなタンツがパリ見物の日、おそらくはナチスが押収した絵画を展示した「美術館」(?)を訪れるのだが、そのときに(一般には立ち入れない)「デカダン美術」収納の別コーナーにあったゴッホの「自画像」を眼にし、強烈な反応をみせる。顔に汗をかき、左眼をピクピクと痙攣させて作品を見入るのだ。
 タンツはその部屋を出るとき、入り口にあったパンフレットをポケットに入れて出て、そのあと自分の宿泊するホテルでハルトマンに、「誰かがこのパンフを置いていった。よほどお勧めなのだろう。また明日行ってみようと思う」と言うのだ。そして、ハルトマンに「デカダンとは?」と質問もする(ハルトマンは美術史的な常識的な返答をするが)。

 おそらくは「異常性格者」であったタンツは、それまでゴッホの絵を知らなかったのだろう。ゴッホの自画像は、まさに「狂気の発露」に近しい「表現」としてタンツの目に映り、そこに「タンツ自身の内面」の投影を見出したのではないかと思う。わたしは特にゴッホの絵を「異常性格者の絵」としようとは思わないが、彼の絵の強烈なまでの「自我の発露」は、激しくタンツの内面の共振を呼んだことだろう。

 この映画はひとつの「異常犯罪」ということを超えて、時代背景にナチス・ドイツの時代を選び、ナチス・ドイツの行為と「異常犯罪」を結びつけただけでなく、その「異常犯罪」を美術作品と結びつけた描写をしたということで、記憶されるべきところがあると思った。そんな人物を、特異な性格俳優であったピーター・オトゥールが、みごとに演じていた。『アラビアのロレンス』のピーター・オトゥールも、どこか変態っぽいところがあったのだけれども、ピーター・オトゥールといえばやはり、この作品のことも思い出すべきなのだとわかった。