ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』アンドレ・ブルトン:著 巖谷國士:訳

 わたしは、アンドレ・ブルトンはやはり素敵な詩人だと思っている。例えば、この『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』(1924)の前年に発表された『地の光』(1923)に含まれる「むしろ生を」という詩など、稲田三吉氏の翻訳によるものだけれども大好きだし、もっと後年の1947年に発表された長詩『シャルル・フーリエに捧げるオード』の、自己の思考をシャルル・フーリエに重ねて理知的な展開を見せる詩も、忘れることはできない。
 そしてもちろん、アンドレ・ブルトンという人物は、「シュルレアリスム」という運動を取り仕切った「法王」であったわけで、わたしが若い頃にシュルレアリスムについて知ろうとすることは、つまりはアンドレ・ブルトンを知ろうとすることでもあった。
 彼は非常にすぐれた「プロデューサー」、「ディレクター」であり「コーディネーター」であり、そのことがシュルレアリスム知名度を高め、同時にその運動に奥行きを与えたものと思うが、しかしながらその「排他性」というか「独善性」への批判はその後大きくなっただろうし、それはブルトンを擁護することも出来ないようなことでもあったと思う。

 そんなブルトンが、「<シュルレアリスム>だぜ~!」と、最初にぶち上げたのがこの「シュルレアリスム宣言」ではあった。この文庫本の巖谷國士氏による解説に詳しいが、実はこの「宣言」、この本の後半の「溶ける魚」という作品集出版に際しての「序文」として書きはじめられたものではあるという。
 実は、この「シュルレアリスム」という呼称、ブルトンが編み出したものではなく、先にギョーム・アポリネールによって提出されたものだったという。そしてこの「宣言」執筆時、別のモダニズム詩人連中がこの「シュルレアリスム」という呼称を持ち上げはじめ、そのことに危機感を持ったというか「いや、オレこそが<シュルレアリスム>っつう呼称を使うのだ!」と言いたいブルトンが、そういう政治的な(?)理由からこの「宣言」を書くことになったわけだ。
 しかしアレである。もともとこの「シュルレアリスム」という言葉を産み出したアポリネールはすでに1918年に没しており、そういう著作権という事項のあいまいだった時代に、アンドレ・ブルトンが「<シュルレアリスム>という言葉はこれ以降オレが使うのだ!」と言いたかったにすぎない。さてさて、もしもアポリネールが夭折することなく以後も永らえていたならば、このような状況をどのように仕切っていたことだろうか?

 以上のようなことを思いながら、何十年ぶりかにこの「シュルレアリスム宣言」を読んだ。
 まず読んで思ったのは、「ずいぶんとコンサバだなあ」ということだった。
 つまり、シュルレアリスムとは先行するダダイズムのあとを受けた文学運動であると思っていたのだが、ダダイズムがそれ以前の「詩」など文学・文化に大音声で「ノン!」と否定していたこと(そして、「音響詩」などのそれまでの文学概念から逸脱した作品を発表したこと)に比べ、ここでブルトンのいうシュルレアリスムは、まずは単に「文学史の再編成・読み換え」を示唆しているだけではないのかという感想になる。それはM・G・ルイスの『マンク』がいいね、とか、ジェラール・ド・ネルヴァルだとかノヴァーリスとかの名を挙げているだけではないかという印象。これがどうやって「新しい文学運動になるのか?」となる。単に「今まで日のあたらなかった<幻想文学>の復権」ではないのか、それは単に「趣味」の問題ではないのか?とも思う。
 まあそこにはまさにここで「溶ける魚」で実践してみせたような「自動記述」という方策があり、医学生(軍医)でもあったブルトンが早い機会に知ることになったフロイトの理論からの「夢」への肩入れなどがあるだろう。しかし、そういう過去の<幻想文学>と「自動記述」がどのようにつながるのか、わたしにはイマイチわからないままだった。それはこれ以降のブルトンの活動でこそ知られることなのかもしれないが。

 もうひとつ言えるのは、この「宣言」執筆時、ブルトンはただまずは「シュルレアリスム」の屋台骨をこさえることに専念していたわけで、実はそれ以降「シュルレアリスム」といえば「美術」だね~、といわれてしまうような、「美術」への意識はまだまだ構築の最中というか、とにかくはブルトンの中では「シュルレアリスム」とはあくまでも(この時点ではコンサバな)文学運動、という意識が垣間見える。「美術」のことはわからないでいるのだ。この時はまだブルトンの中ではパウル・クレージョルジュ・ブラックピカソも<同胞>なのだ。ただこの時期、「パピエ・コレ」こそが、その中に「シュルレアリスム」精神があると読んだ中に、ブルトンの慧眼を読み取れるかもしれない。
 その後のシュルレアリスムの定義での、ロートレアモン伯爵の「解剖台の上でのミシンとコーモリ傘との出会いのように美しい」という有名な言葉(つまり、「デペイズマン」という思考)はこの「宣言」ではまだ出て来ないが、ブルトンの中にはそういう意識はすでに抱かれていたことがうかがえる。

 それでまだまだ書きたいことはいっぱいあるのだが、まずは後半の「溶ける魚」を先に読む。
 ここで書かれているのは決して「視覚的なイメージの氾濫」ではない。そうではなく、「あり得ない言語の連鎖、結びつき」が何を産むかということだろう。例えば、「公園はその時刻、魔法の泉の上にブロンドの両手をひろげていた」などという文章は、そもそも具体的なイメージの創成が不可能である。ここにあるのはどこまでも「テクスト」の連鎖の問題であり、「想像不可能」という事象、事態が書かれていると思う。
 このことは同時代の「モダニズム詩」と問題を共有した動きではないかと思う。例えば、T・S・エリオットの『荒地』の有名な「四月は最も残酷な月」という詩句の「想像不可能性」、「具象性の排除」と結びつくのではないだろうか。そういうところで、「シュルレアリスム詩」というのはやはり、どこかで同時代的な「モダニズム詩」と言語問題を共有しているのではないかと思う。

 ただ、わたしはこの「溶ける魚」の22、「あの女、彼女を知ったのは‥‥」という章があきれるほどに気に入ってしまい、これはこの20年ぐらいのうちに読んだ「文」では最高のものではないかと惚れ込んでしまった。そんなに長くはない章なので、ぜんぶ暗誦できるようになりたいぐらいだ。やっぱりわたしはアンドレ・ブルトンが好きなのだな。今日になって、この文章に出会えたのはわたしにはとてつもない僥倖ではあった。

 さてさて、もうひとつ書いておきたいこと、この『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』が出版されたのが1924年、そしてジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』が同じパリで出版されたのは1922年である。これらのことは「無関係」なこととして過ぎ去ったことなのか? それとも、けっこうリンクし合っていたことなのだろうか? ということがある。
 わからないが、どうもアンドレ・ブルトンジョイスの『ユリシーズ』にまるっきし関心がなかったのではないかと思えるところがあるが、実はこの当時のブルトンの盟友のフィリップ・スーポーは、相当にジェイムズ・ジョイスとの交流がある。今はちょっと名前を思い出せないが、ジョイスと親しくしていた詩人で後にシュルレアリスト・グループに参加した詩人もいる*1(というか、この時代のフランスのモダニズム詩人は、いやおうもなく「シュルレアリスム」に結びつけられてしまうことがあったのだ)。
 一方、英語圏の詩人らは当時すっかり「モダニズム」路線に先に入っていて、そこには特にジョイスと関係の深かったエズラ・パウンドらがいたわけだ。今ちらっとそのあたりの文学史をのぞいてみても、英語圏の詩人で「シュルレアリスム」に傾倒した詩人というのがどうも見当たらない。こういうあたりに、「シュルレアリスム」もひとつの「モダニズム運動」とみたときの、世界的な、「モダニズム文化圏」vs「フランス詩」とかの「抗争、対立」があるのだろうか?

 ブルトンが『ユリシーズ』に興味を示さなかったように、ジェイムズ・ジョイスの伝記を読んでいても、ジョイスもまた「シュルレアリスム」にはこれっぽっちも興味がなかったように読める。しかしジョイスチューリヒ時代に「ダダイズム」の創始者というか、ダダイストであったトリスタン・ツァラとの交流はあったようだ。じっさい、『ユリシーズ』執筆に「ダダイズム」もまた影響を与えていたのではないかと考えるのは楽しいことで、無益でもないとも思えるけれども、ジョイスは「シュルレアリスム」の「自動記述」など「バカバカしい!」と、鼻先で笑ったのではないだろうか。
 もう一人、この時代の作家(ちょっと時代は10年ぐらい後になるが)にウラジーミル・ナボコフがいて、彼もまた1930年代にはパリで生活していたわけだ。ナボコフにせよジョイスにせよ詩集も上梓した「詩人」でもあったわけだけれども、ナボコフは『ユリシーズ』のロシア語訳を画策するぐらいに『ユリシーズ』に惚れ込んでいたのだが、ナボコフシュルレアリスムに興味を持っていたなどという記述は、ブライアン・ボイドによるナボコフ伝にもまったく書かれてはいない。しかしそのエッセイなどで何度も何度も何度も「わたしはウィーンの連中が大っ嫌いだ」と書いてフロイトへの嫌悪感を語りつづけたナボコフが、シュルレアリスムに好意的であるはずもないのである。

 その後、「シュルレアリスム美術」なるものはある意味で世界を席巻し、20世紀美術での「幻想絵画」の大きな潮流にはなったと思うし、「小説」の中に「シュルレアリスム的」なものを読み取れる作品も多い。
 おそらくは、この「シュルレアリスム宣言」でブルトンの提示した「自動記述」という方法も、「これこそ!」というかたちで表面には出て来ないにせよ、ここでの「無意識」の発見というものは、まさに(ジョイス的なものに対抗して)「偉大な功績」ではあっただろうとは思う。
 

*1:あとで調べて分かったが、これはヴァレリーラルボーで、彼はジョイスに指名されて『ユリシーズ』のフランス語訳の「総監修者」になったのだった。彼は1924年に「コルメス」という文芸誌を発刊し、そこにブルトンシュルレアリスムのメンバーも寄稿したのだった。ラルボーシュルレアリスムのグループに参加したというのはわたしのミス。