ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

2021-05-11(Tue)

 ニェネントは、ちょびっと内斜視である。普段はそれほど気にならないけれども、彼女が正面を見据えているときに前から見ると、けっこう寄っている。昨日の朝の写真なんか、かなり寄り目に見える。
 これはニェネントの場合遺伝的なもので、シャムネコ系の血の入ったネコに多いし、ひょっとしたらニェネントがその血をひいている「ラグドール」種にもよく見られるという。特に室内飼いの場合はそのことが障害になることもないし、ニェネントの場合は「ちょびっと寄り目」程度だから、「あら、かわいいね~」ぐらいのものだろう。でもときどき、昨日の写真みたいなのを見ると、あらためて「内斜視だね~」とは思ったりする。

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 今日は、わが家の「ゴミ問題」が解決するかどうか、という重要な日ではあった。午後3時ごろ、市のクリーンセンターの方が2名、ウチを訪ねて来てくれた。けっこう年配のお二人だったのでちょっと安心。
 わたしは今日出す分の「瓶・缶類」は紙袋に入れて集積場に出してあったのだが、ま、結果としてそんなことやっても別に意味はなかった。今はわたしの出したゴミ以外にも、収集車が持って行かなかったよその人の出した「空き瓶」が出されてもいたわけで、「ほら、こ~んな状態なんですよ」と説明して、話も早かった。
 ウチのゴミ集積場の真ん前にも別のゴミ集積場があり、そこに「不燃ゴミ」(市の指定では、瓶以外のガラス類、小さな電気製品、植木鉢、そして包丁などなど)を入れる収集用の袋がまだ残っていて、クリーンセンターの方は「ではこの袋にみんな入れちゃいましょう」と、わたしのゴミや収集されていなかった瓶類もみ~んなぶっ込んじゃうのだった。そんなこと、わたしがやったらまずいのだけれども、クリーンセンターの方がやるのだから無問題なのだ。
 とにかく次回からは、収集日の前にわたしの部屋の前に収集用の専用袋を置いておくので、それを使ってゴミ出しして下さいという。それは体よくわたしに「専用当番」になってもらうということか?とあせり、「責任を負うことは出来ませんよ」と言ったが、その袋はあくまで「わたしのゴミ」用に使えばよく、まあ半分はその袋をわたしがもらっちゃうみたいなことらしい。
 まだまだ、次回以降の「燃えないゴミ収集日」が過ぎてみないと「めでたしめでたし」とはならないだろうけれども、今のところは「どうしたらいいのだ」という悩みは解消された、と言っていいのだろう。

 さて、いちおうとりあえずは当初の予定だった<緊急事態宣言>は今日で終了し、また明日から5月いっぱいの<緊急事態宣言>が始まるというか継続されるわけだけれども、ここで一部の規制が緩められ、明日からは映画館・劇場、そしてスポーツ施設などは再開されることになった。ところがここで、なぜかなぜか「美術館・博物館」などは継続して休業が要請されたという。それは誰が考えても「おかしな話」で、この要請を受けて文化庁は再開の要請を出し、東京国立博物館、国立近代美術館、科学博物館、国立新美術館、そして国立映画アーカイブの5館はいちどは再開館されると発表されたのだが、これがそのあとになって東京都は文化庁に「12日以降も休館するように」と文書で通達し、けっきょく休館が続けられることになってしまったのだ。

 「わけがわからない」とはこのことで、特に「国立映画アーカイブ」は明日から営業再開される一般の映画館と、いったい何が違うから「休館を続けよ」というのかまったくわからないし、劇場・映画館、スポーツ施設はOKで、美術館・博物館がダメなのはなぜなのか。逆に、誰が考えても劇場・映画館、スポーツ施設よりも美術館・博物館の方が「密」も避けられ、それこそ「安心・安全」なのではないかと思えるのだが、とにかく「わけがわからない」。

 強いて深読みすれば、2年前の「あいちトリエンナーレ」の問題など、権力側から見れば「反権力」の立場が読み取れる、権力側からすれば「不愉快な」展覧会だった、ということではないだろうか。それはこの際つぶしたいと(あのときは、うまく一般の無自覚な保守層も乗ってくれたわけだが)。例えば去年わたしが佐倉市国立歴史民俗博物館で観た『性差(ジェンダー)の日本史』展なども、女性差別、LGBTQ差別を継続したいこの日本の権力者からみれば、はなはだ「不愉快」な展覧会であったろうことは想像に難くない。だから、美術館も博物館も「権力の敵」なのだろう。
 このことは、スカ首相が就任早々にやったことが「日本学術会議」の推薦された6人を任命しなかったことだった、ということにもつながっていることだろう。つまり、今の日本の権力は、芸術・文化を抑圧しようとしている。
 もちろんこのことはナチスの「焚書」や「退廃芸術展開催」にもつながることで、国家による文化・芸術の統制という恐ろしい時代が、今始まろうとしているのではないか。