ワニ狩り連絡帳2

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『白鯨との闘い』(2015) ロン・ハワード:監督

白鯨との闘い [Blu-ray]

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  • 発売日: 2016/11/16
  • メディア: Blu-ray

 これは、ハーマン・メルヴィルが大傑作『白鯨』を書くためのリサーチとして、かつて巨大な鯨に襲われて母船が難破し、ボートで漂流したという元船乗りの話を聞きに行くという構成で、「事実に基づく」とされている。
 まあわたしもメルヴィルの『白鯨』は読んで強烈な印象が残っているので、「どんなものか」とまずはこの作品を観て、「はたしてどこまでが真実か?」と、あとでいろいろと調べてしまった。

 この映画は原題を「In The Heart Of The Sea」といい、ナサニエル・フィルブリックという人の書いた同じタイトルの書物が2000年に刊行されている。本の副題が「The Tragedy Of The Whaleship Essex」といい、本は全米図書賞を受賞していて、日本でも「復讐する海 捕鯨船エセックス号の悲劇」のタイトルで翻訳が出ている。
 どうやら映画はこのナサニエル・フィルブリックの本の映画化と捉えていいのだろうけれども、原作から離れてそれなりのフィクションが盛り込まれているようで、これを「事実に基づく」と言ってしまうと、のちのちかなりの誤解の種を撒くことになってしまうのではないかと思った。

 ナサニエル・フィルブリックの本は、わずか14歳でそのエセックス号に乗り込んでいた「生き残り」、トーマス・ニッカーソンが生還後55年を経て1876年に書き残した手記を基にしているということだ。
 それでニッカーソンに遭難体験を書き留めるように勧めた作家がじっさいにいたそうなのだが、それはメルヴィルではない。そもそも『白鯨』が刊行されたのは1851年のことであり、メルヴィルがニッカーソンの体験記を読んだわけもないし、この映画でのようにニッカーソンに会ってもいない。
 興味深いことに、ニッカーソンの原稿はその後誰にも読まれずにトランクにしまいっぱなしにされ、1960年にようやく親族がこれを読み、原稿の重要性を認識。捕鯨の歴史家に認証を依頼し、1984年にようやく刊行されたのだった。
 それが、ナサニエル・フィルブリックによって、エセックス号の船長であったジョージ・ポラード・ジュニア、一等航海士の(この映画の主役である)オーウェンチェイスらの話や書き残したものがプラスされ、「復讐する海 捕鯨船エセックス号の悲劇」として刊行されるのである。

 では、メルヴィルはどのようにしてこの「エセックス号の悲劇」を知って、『白鯨』を書いたのか、という疑問が出てくるが、実はこの映画ではまったく触れられないが、オーウェンチェイスは母港ナンタケットに生還後にすぐにゴーストライターの助けを借り、エセックス号の災害を説明し、悲惨な難破船の物語を完成させているのだ。調べてもその物語は今は入手不可能のようだけれども、当時は本になっていたのかどうか、それなりに読まれたのではないだろうか。じっさい、メルヴィルがそのオーウェンチェイスの手記を読んでいることは確からしい。また、今はどこに書かれていたのかわからなくなってしまったが、メルヴィルはそのときの船長のジョージ・ポラードにじっさいに会って、話を聞いているらしい。それはひょっとしたら、この映画でメルヴィルがニッカーソンに会いに行ったことに酷似しているかもしれない。

 わたしはその、「復讐する海 捕鯨船エセックス号の悲劇」は読んではいないのだけれども、Wikipediaの英語版などで調べれば、それなりに「エセックス号の遭難」のことは知ることができる。そのことをつき合わせると、この映画で描かれていること、語られていることはけっこう事実とは異なることがあるようだ。
 わたしはそのようにWikipediaなどで調べる前にこの『白鯨との闘い』を観て、基本は「事実」だと思っていたものだから、「それはすごい!」と思ったこともあるのだけれども、特に一ヶ所、遭難したボートが無人島にたどり着き、その島に居残りたいという4名を島に残して残りの船員が島を出、つまりオーウェンチェイスらは生還するわけだが、映画では生還後に再びオーウェンチェイスは自らエセックス号の航路と同じ海域に出かけ、4人を残した島で奇蹟的に生き残っていた3人を救助したと語られていたわけだけれども、調べるとそれは事実は異なっていて、生還したオーウェンチェイスらの話を聞いた捕鯨船組合だかがただちにその海域の近くに航海する捕鯨船にそのことを知らせ、3人を救助したというのが真相なのだった。とにかくは、島に残っていた4人のうち、3人は救出されたのだ。
 ここでちょっと、映画ではまるで触れられなかった「裏話」を書いておきたい。その島に残って無念にも生還できなかったのはマシュー・ジョイという男なのだが(映画では、キリアン・マーフィーが演じていた)、実はオーウェンチェイスは生還後にさいしょの妻が産褥で亡くなり、そのあとそのマシュー・ジョイの未亡人と再婚しているのだった(さらにその後を語ると、その2度目の結婚でもマシュー・ジョイの未亡人は産褥で亡くなり、またオーウェンは再婚するのだが、その妻はオーウェンチェイスが航海に出ているあいだに「日にちの合わない」子を出産し、オーウェンチェイスは彼女と離婚する。さらにオーウェンチェイスはもういちど再婚することにもなるのだが、まあこの話は本筋とは関係がない。さらに書けば、オーウェンチェイスはその晩年に、漂流中の体験からのPTSDともいえる、奇怪な行動を取るようにもなるのだった)。

 なんか、映画のことを何も書かないで、その背後のことばっかり延々と書いてしまった。
 わたしはロン・ハワードという監督の作品についてよくは知らないのだけれども、そこまでコテコテにエンターテインメントに徹するのではなく、そこそこに「文芸的」な要素を残したい監督さんじゃないのかと思う。イギリス映画のようにコテコテに「文芸映画」にはならないし、ヨーロッパ映画みたいに作家の個性は出さない。
 この『白鯨との闘い』でも、これはいとも簡単に倍率を引き上げた『ジョーズ』みたいに演出できるわけで、まあじっさいにそういうところもあるのだけれども、ちょっとセーブしている印象はある。それはもちろん、日本のタイトルとは裏腹に、この映画の主題は「クジラと人間との戦い」だけにあるのではなく、「海の真っただ中(In The Heart Of The Sea)で遭難すること」の恐ろしさを描くものであったからでもあるだろうけれども、それだったら、何も『白鯨』など引き合いに出す必要もなく、ハーマン・メルヴィルを登場させる意味もないことになる。ここに、そこそこに「文芸的」でありたいという監督の希望が読み取れるだろうか。どうも、一般に「読破」がむつかしく、「難物」といわれている『白鯨』とリンクさせることで、ちょっと作品に「箔」をつけようとでもしたのだろうか。というか、『白鯨』を映画化してみたいものだけれども、これはとても手に負えるものではない。せいぜいリンクさせることで「文芸的」味わいを持たせようとしたのだろうか。
 いろいろと、SFX画面の迫力、19世紀の漁港、捕鯨船の再現、その渋い色調など、気に入ったところもあった作品ではあるけれども、けっきょくは中途半端なエンターテインメント作品に終わってしまったのではないかと思える。