日本文学研究者のドナルド・キーン氏が亡くなられたとの報道。96歳というから「大往生」ではあるだろうが、その最晩年まで精力的な活動を続けられた方だ。それで、おそらくはこれから「外人」でありながらも「日本」を賛美された、ネトウヨ的な「日本スゴい!」キャンペーンに利用されてしまうのではないかと予測する。きっとそういう動きが出てくるだろう。
それはわたしだってもちろん、キーン氏の百分の一も日本文学のことを訳知り顔で語ることは出来ない存在だが、そういうところでまずは、キーン氏の業績を正当に評価して「やはりキーン氏は<日本スゴい!>と言っていたのだ」と言えるだけの教養のある<右派>の言説があるならば、聴いてみたい、読んでみたい。晩年のキーン氏は安倍政権下の日本の動きに違和感を表明し、改憲に反対し、反原発、反オリンピック開催の立場を取られた方だったのだ。キーン氏が亡くなられてしまわれた今、「キーン氏は日本を賛美されていたのだ」などという言説をはびこらせてはいけないと思う。
それで今、多和田葉子の『献灯使』を読んでいて、明日にも読み終わるのだけれども、これはディストピア小説として恐ろしい作品で、2014年に発表された作品でありながら、まさに今、日本はこのようなディストピアに突入しつつあると思う。<右派>の人たちは<文学書>を読めないから、ここに描かれた世界のことをまるで知らずにいるだけだけれども、ちゃんとした<右翼>ならば、多和田葉子排斥の動きがあってもいいはずだと思う。
今の<右派>は、テンプレート的な思考をしているだけで、じっさいに自分の頭脳で考えるということをしていない。それは、「リベラルな思考に対してはこのような反撃をすればいいのだ」というテンプレートで動いているだけだし、そもそも、そのような反撃に対してのリベラル側からの反論にまじめに向き合おうとする意志はない。<反撃>こそが有効なのだ。その意志はつまり、今の安倍晋三政権と共通するものだろう。ああ、日本はもうすでに、住むに値する国ではない。
‥‥ということはひとまず置いておいて(わたしはいまさらニェネントを連れて亡命とか出来ないから)、今日は日曜日。購入したプリンターもすぐには使えないし、ただ「お休み」の一日。先日図書館でもらってきた「旭山動物園」についての本をちゃっちゃっと読み終わり、夕方から久々にトマトシチューをつくって、夕食はそのトマトシチュー。ナマのトマトをぶちこんだのでまだちょっと酸っぱいが、このまま置いて、明日とかになればもっとまろやかな味になることだろう。
夜は、アナログ盤からMDにコピーしてあったVic Godardの「T.R.O.U.B.L.E」を聴きながら寝る。聴いている途中でニェネントがベッドに駆け上がってきて、「遊ぼ〜!」と催促してくる。まあね、一日でニェネントとしっかりと交遊する時間は、こうやってわたしが「寝ますよ〜」というときぐらいのものだから、いっぱいいっしょに遊ぶのだ。
その「T.R.O.U.B.L.E」から、タイトルソング一曲を。