これは、独歩の作品ではかなり著名な作品のひとつなのだろうと思う。わたしは「牛肉と馬鈴薯」といえばそれは「肉じゃが」とかだろうか、とか思っていて、何か料理に関する作品なのだろうか?などと、のほほんと思っていたのだが、そうではない。
これは明治三十四年に書かれた作品だけれども、つまり当時のハイブロウな東京のサロンというか倶楽部というところで、六人の男性が飲みながら会話していて、これが「牛肉」というのは「現実(実際)」の社会での生活で、「馬鈴薯」というのは「理想」の生活のことらしい。現実に生きればうまいものが食えるが、理想をつらぬけば食うものにも困る。それが「牛肉と馬鈴薯」ということになるらしい。そういう六人の会話の席にもうひとり、作者の分身のような男がやって来て、彼自身の話を始めるという作品。
そもそも、「現実」に生きれば「牛肉」よ、というあたりで、この場に集まった六人は現実社会では成功した連中なのだろうと想像もつき、そうでなければこういう高級そうな倶楽部に来ることも出来ないだろう。しかし、彼らの内面には「理想」に生きたい、という夢のようなものもある。その「夢」が、当時の北海道の開拓民と結びつくあたりが興味深くもあるのだけれども、ここに七人目の「岡本」という男が自分語りを始めると、それまでのコント風な展開がみごとに「脱線」し始める。もう、その岡本の話には「牛肉」だの「馬鈴薯」だのという話はなく、ただ、「わたしが生きて望むところのものは」という話になり、それはある意味で「理想」でもあるだろうけれども、そういう「現実」とか「理想」とか超越した話になる。
それはもちろん、独歩のクリスチャンとしての身のあり方にも大きく関連しているわけだけれども、先にわたしが読んだ柄谷行人の「近代日本文学の起源」に即していえば、まさにここに「内面の発見」がある、ということがいえると思う(「近代日本文学の起源」には、この作品のことは触れられていないが)。
ひとつの作品としてみれば先に書いたように、前半のカリカチュアめいた展開と、後半の「岡本」の「独り語り」との落差があまりに大きいし、もう岡本の語りには牛肉も馬鈴薯もないのだけれども、ここでの「Who am I?」という問いかけは、まさに「近代日本」の出発点、だったのかもしれない。