ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『アナーキスト人類学のための断章』(2004) デヴィッド・グレーバー:著 高祖岩三郎:訳

 あまり書きたくはないのだけれども、わたしが政治的立場を選ぶとすれば、それは「アナーキズム」ということになる。まあ「政治的立場」などというよりも「信念」のようなもので、政治活動を行うわけでもない。それでもやはり「アナーキズム」である。
 しかし、「アナーキズム」というものほど誤解されている「主義」もないわけで、「無政府主義」などと翻訳されると「テロリズム集団」と思われてしまうし、じっさい今でも「アナーキズム」を危険思想扱いする人も多い。
 また、じっさいに「アナーキズム」ほど人それぞれ、多様な思想もあまりないわけで、「わたしはアナーキストだ」という人たちの「アナーキズム」思想は、過激なものから穏健なものまで、社会運動的なものから個人主義的なものまで、それぞれにまるで異なっていたりする(この日本には、「天皇アナキズム」というものまであるのだ)。

 よく、ジョン・レノンの「Imagine」の歌詞がアナーキズムの精神を歌っているのではないかと言われる。

Imagine there's no countries
It isn't hard to do
Nothing to kill or die for
And no religion, too

 ここで歌われる「国家がなければ」というのは確かに多くのアナーキストが語る理想ではあったかもしれない。そしてじっさいに、アナーキズムをそういう「反国家」と理解している人は多いと思う。
 しかし、そんな「反国家」からは「国家に対する闘争」が起こることになり、アナーキズム運動は「革命運動」となってしまうだろう。
 しかし、わたしが考える「アナーキズム」とは、そういうものではない。それは「権力」の否定であり、「搾取」の否定である。もちろん、権力を行使して搾取を肯定する根本の機関とは「国家」であるから、そういう意味で「反国家」であることは当然のことではあるだろう。
 でもそこで、国家に反するために別の「権力」を持ち出せば、そこですべてが「ご破算」になってしまう。これをじっさいに行ったのが「マルクス主義共産革命」で、既成の「国家権力」に対抗して「革命権力」で戦ったために、革命が成就されたあと、つまりは「古い権力」が「新しい権力」に置き換わっただけなのだ。しかも「反革命」を抑え込むために旧国家よりも大きな権力体系をつくり、国民を抑圧したのだった。もちろん「搾取」がなくならなかったことは言うまでもない。

 こういうことを書き出すと止まらなくなって、この本の感想を書けなくなってしまう。そろそとこの本のことを書こう。
 著者のデヴィッド・グレーバーはアメリカ生まれのアナーキストのアクティヴィストであって、人類学者でもあり、21世紀の論壇で「現在形のアナーキズム」を説いた人だったという。現在のアナーキズムに最も影響力のあった人物だっただろうが、残念なことに3年前に59歳で亡くなられてしまわれた。
 この『アナーキスト人類学のための断章』は、著者が人類学者としてマダガスカルに2年間滞在した体験から、アナーキズムの基礎の中に人類学を導入する方策を確立し、近代~現代の人類学者の功績から新たなアナーキズム理論を紡ぎ出そうとした、そのノートブックともいえる書物。

 デヴィッド・グレーバーが滞在していた時期のマダガスカルは、その前の政権の社会主義マルクス主義による共和制が完全に破綻して新しい政権へと移行した時期で、マダガスカル島では地域によっては国家の統制がまったく働かない、「無政府の状態」でもあったのだという(これはいわゆる、混乱をあらわす「無政府状態」を意味しない)。そんな中でデヴィッド・グレーバーは人々が混乱に陥らず、権力の介入なしに自分たちの秩序をつくっていたことに注目、「アナーキズムなどというものは現実性のない理想論だ」ということへの反駁の実例を見た思いがしたのだった。
 さらにグレーバーはアマゾン奥地の部族に関してのピエール・クラストルによる人類学的アプローチから、「彼らの中には権力を忌み嫌い、権力、そして国家を排除しようとする不文律があるのではないか」と考えるのだった。
 そして以後、人類学者のマルセル・モースの業績などから、「人類学者の調査こそ、アナーキズム理論を成立させるものなのではないか」と考えることになる。

 ちょっとこのあと、今のわたしにはしっかり賛同もできない部分もあって、けっこうななめ読みしてしまったのだったが。

 わたしもマルセル・モースの『贈与論』は読んでいて、その中の「ポトラッチ」という概念はまさに、「利潤を生もうとする近代以降の経済活動に疑問を投げかけ、資本主義経済の根本を突き崩す考えではないのか」などとは思っていたわけで、ちょっと「わが意を得たり」という気はした(つまり「ポトラッチ」とは、生活の基本に害をなす「欲」というものを生み出さないための知恵ではなかったか、とも思う)。
 この本を読んで、わたしなりに脱線しながらもいろいろなことを考えたのだけれども、例えば「人類の<進化>」ということにも疑問を呈さなければいけない、などとも思った。
 人類の進化させた思想というものも、まずはギリシャ時代というものがあって、その後中世を経て「ルネッサンス」以降、西欧の「思想」というものが世界を席巻することになるけれども、「その時点から<権力>への希求」というものが生まれ、西欧から世界に広まってしまったのではないか」ということになる。それをわたしたちは「進化」と捉え、賛美するけれども、はたして本当に「喜ばしい世界」になったのか、ということになる。ただ西欧的な「権力」「資本主義」が発展しただけではないのか。
 もちろん、わたしにしてもそういった「西欧的な知」の恩恵を受けていることは否定はできないけれども、そんな中でも「過去」を否定することで推移・発展してきた「美術」の世界において、アナーキズムを支持する現代美術アーティストが多かった(多い)ということは示唆的だと思う(シュルレアリストなど)。また、映画の分野でも「この監督はアナーキズムへのシンパシーを描いているにちがいない」というような作品に出会うことも多い。

 考えがまだまとまらないままに、だらだらと書いてしまったが、最後に、この翻訳者は「アナーキズム」のことをわかっていないのではないか、と思う。おそらくこの翻訳者はマルクス主義者で、「マルクス主義」を補完するものとしてこのデヴィッド・グレーバーを読んで翻訳しているのだろう。「あとがき」にこの方は、「グレーバーは、これまで常にマルクス主義の『貧しい従姉妹』とされてきた『アナーキズム固有の理論』を打ち立てようとしているのではないか」と書かれているが、いったいどこでいつ、アナーキズムが「マルクス主義の『貧しい従姉妹』」などとされたのか知らないが、多くのアナーキストが「マルクス主義」というものをそもそも是認していないというか「否定」しているというのに、それを「貧しい従姉妹」というのは、この翻訳者の持っている「偏見」ではないかと思う。ちなみに、Wikipediaの「#反共主義」という項目の中には、しっかりと「アナキズム」の項がある(わたしも根本のところでは共産主義に同意などしていないが、日常生活の中での共産党員、支持者の行動は支援することが多い)。
 読み終わったあと、「サパティスタ民族解放軍」の戦略などについてもっと知りたくなり、つい関係する本を注文してしまった。