ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『一九八四年』ジョージ・オーウェル:著 トマス・ピンチョン:解説 高橋和久:訳

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

 「ディストピア小説」の古典だが、ようやく読んだ。ジョージ・オーウェルの名は、若い頃にそのスペイン内戦ルポ『カタロニア賛歌』によって知っていた。彼はそのスペイン内戦で人民戦線に協力してフランコ軍と戦うのだが、人民戦線内部では、ソ連からのスターリン主義者がオーウェルの加わった党(マルクス主義系)やアナーキストらを糾弾し、内紛が発生するのだった。
 この『一九八四年』には明らかにその「スペイン内戦」でのオーウェルの記憶が活かされていて、この全体主義国家「オセアニア」の最高権威と目される「ビッグ・ブラザー」のポスターには、スターリンの容貌が読み取れ、その秘密抵抗勢力のリーダーであるゴールドスタインのモデルは、トロツキーらしい。

 ストーリーは主人公のウィンストン・スミスが体制への疑問を抱くようになり、まずは隠れて日記を書くようになり、だんだんと反体制側に組するようになる。また、ウィンストンはジュリアという女性と知り合い、二人で国家の監視の目をくぐり抜けての逢瀬を重ねる。しかしウィンストンを反体制側へと導いたオブライエンは実は国家の検閲官で、ウィンストンとジュリアは国家に拘束されるのである。

 この空想された「近未来」(今では1984年は遥かな過去だが)の国家は強力な全体主義、監視社会で、「テレスクリーン」というテレビと監視カメラとを兼ね備えた装置によって国民は監視されている。
 国民は上級党員と下級党員、そしてそれ以外の「プロール」と呼ばれる下層国民とから構成されるが、どうも「プロレタリア」に相当するような「プロール」階級の人たちは党からは無視される存在で、それだけにその生活に活力を持ち、ウィンストンは「未来はプロールのものではないか」と漠然と思っている。
 このときの世界は主人公の住む「オセアニア」、それに「イースタシア」、「ユーラシア」の大国3つに分割されていて、オセアニア上層部によるとオセアニアイースタシア、ユーラシアのどちらかと絶えず交戦しているというが、それは国民統制のための方便らしく、時に上層部から「今の戦争相手はイースタシアからユーラシアに変更になった」などの指令があり、すると下級党員は総がかりですべての過去の資料を抹消し書き換え、それまで書かれていた対戦相手を変更するのである(これは最近は日本で現実にやられるようになったけれども)。
 党の三大モットーは
 ●戦争は平和なり
 ●自由は隷従なり
 ●無知は知なり
 というものであり、これを遂行するために「二重思考」という思考法が取られる。国民(党員)監視のために「思考警察」(Frank Zappaが歌にした「頭脳警察」だ)が存在し、国民(党員)を常に鼓舞するために継続的な戦争状態が望ましいのだ。

 作品の感想としてひとこと書けば、導入部でしばらくウィンストンの書いていたという「日記」が、いつしか紹介引用されなくなるのが残念で、もっとウィンストンには日記をつづけてもらい、その内容を紹介してもらいたかった気がする。もちろん本文がウィンストンの思考過程を追うように展開するのだから、「日記」と同じではないかともいえるのかもしれないが、「考えられたこと」と「書かれたこと」とは異なるものだと思う。その「考えられたこと」がオーウェルによって「書かれた」のは確かだが、ウィンストンの内面として考えられたことがどのように書かれるかということは、小説のひとつの課題だとは思う。
 
 この小説は今では「反共小説」とみなされることが多いようだけれども、そのあたりのことをトマス・ピンチョンが解説でバサリと切り捨てている。オーウェルのスペイン人民戦争への加担を『カタロニア賛歌』でみても、オーウェルの立ち位置は「左派の左派」ともいえるものであり、それは日本でいえば60~70年代の「反日共系」のニューレフトともいえるもので、当時この『カタロニア賛歌』を日本で刊行したのが、そういったニューレフト系の出版者として支持を集めた「現代思潮社」だったことからも読み取れるだろう。
 このトマス・ピンチョンの解説は彼の小説のような晦渋さもなく、ごくまっとうな解説であり、『一九八四年』を読む上での重要なヒントに満ちている。この解説だけでも、また再読したいと思っている。